4月になってあたしは正式に社長秘書として社員になった。
加奈子も里佳も就職した会社は違うけど、同じ日に入社式があった。その日の夜に三人で入社祝いの飲み会をした時は、二人とも真新しいスーツを着て、とっても晴れやかな顔をしてた。
あたしの会社では入社式はない。凄い大企業なのに入社式がないって二人からは不思議がられたけど、新人の殆どが大学卒業前から研修に来ているし、中途採用の人もたくさんいるので、新人だけを集めての入社式は意味がない、というのが篁社長の言葉。
あたしも年が明けてから研修に来ていたから、今更入社式をしてもあんまり意味がないとは思うけれど、他の部署の同期の人たちとは会う機会があまりないので、一回だけでも顔を合わせる機会はほしかったなぁ、とは思う。
でも、清水さんや支倉さんが新人の時には入社式があったんだって。社長が篁さんに代わってから、それまで当たり前にあったことが随分となくなったって話。以前は、確か篠宮さんのお父さんが社長だったのよね。
古くから会社にいる人たち……特に役員たちには、篁社長の方針はかなりのカルチャーショックと反発をもたらしたとかで、ずっと折り合いが悪かったそうで。篁社長は、いつかまとめて追い出してやろうと、役員たちが墓穴を掘るのをじっと待っていたらしい。
それが、あたしの面接の時にみんなしてボロを出してくれちゃったとかで、面白いようにクビに出来たとか。まぁ……クビというか左遷というか。
それまで積もり積もったものもあったというから、あたしの面接は単にきっかけになっただけなんだろうと思う。それに、実際に大鉈を振るったのは篠宮さんだったから、篁社長の名前には傷一つ付かなくて、結局社長の一人勝ち。
はぁ、腹黒社長ここにあり、って感じだわ。
あの優しげで万事公平で公明正大な篁社長の実態が、腹黒で怖い人っていうのは、社内では今のところ、あたしと碧さんしか知らないみたい。ずっと一緒にいる清水さんでさえ分からないんだから徹底してる。
ただ最近は、傍にあたししかいない時には篁社長は本性をさらけ出している。その方が楽なのはよく分かるんだけど、そういう社長の姿を見ていると何だか気の毒に思えてくる。
篁社長よりも遥かに面倒臭い立場の篠宮さんの方には、理解のある秘書たちがいて、執事役のクリスもいてくれるなんて、ちょっと皮肉な話だと思う。そういうところ、篁社長は全然気にしてないみたいで、篠宮さんに対する多少の恨み言は耳にするけど、その程度。
達観しちゃってるというか、篠宮さんよりずっと大人なんだと思う。
そんな篁社長は、あたしの薬指に指輪がはまってることを、逸早く気付いた人でした。
「もうそこまで話が進んでいるんですか?」
と訊かれたのは、篠宮さんから指輪をもらった直後のこと。バレンタインデーの翌日はお休みだったから、会社に行ったのは週明けだったけれど。
そんなに驚かれることかな? と思ってから、そういえば篠宮さんが「せっかく育てた秘書を取り上げることになる」とか言っていたのを思い出した。
「いえ、あの……愁介が言うには、虫除けだそうです」
その一言で合点がいったのか、篁さんは納得したような表情で「人前でもそのように呼べるようになったんですね」なんて言ってた。だって、篁さんの前でもそう言わないと、どこから篠宮さんの耳に入るか分からないもの。
それから、都賀山くんと辻村くんも指輪に気付いて驚いていた。今までネックレスくらいしかアクセサリーをして来なかったから、急に指輪なんて、それも左手の薬指にしていたら、普通は驚くよね。
清水さんはさすがというか、ちょっと目を丸くしただけで、「島谷さんに似合ってるわ、素敵よ」と言ってくれた。
支倉さんは「ダイヤなんて凄いね」なんて感心していたけど、こんな小さな石がダイヤモンドだと分かるところが、逆に凄いと思った。妙にキラキラするから分かるといえば分かるけど、あたしのような歳の子が付けるにはやっぱり高価だと思うし。
そうそう、篠宮さんが言ってた「ブルーダイヤ」というのを、あの後で調べてみた。ダイヤモンドの中でも特に高い評価のある石だとかで、物凄い値が付くらしい。持っているのも怖ろしいと思ったけど、確か篠宮さんは「デカイのを買った」とか言っていた気がする。一体いくら払ったんですか!? それにこうして加工するにもお金が掛かるだろうし……。
あんまり考えないようにしようと思っても、毎日付けているからどうしても気になってしまう。
不思議なことに、奈良橋くんはこの指輪に気付いても、特に驚くこともなく普通だった。何故に? と思っていたら、あたしの相手が内線の彼であることを知っていれば、これくらいは当然のプレゼントだろうと予想をしていたと言ってた。あたしは、そこまで深読みの出来る奈良橋くんが、普通じゃないと思うけど。
ちなみに国際管理部の人たちは、あたしの指輪を見てみんなとっても驚いた顔をしていた。成田さんが「島谷さんが正社員になったら、口説こうと思っていたのに!」って、とっても悔しそうに同僚に嘆いているのを偶然聞いちゃって、やっぱり指輪の効果はあるんだと妙に感心しちゃった。
そして当然と言うか、あたしの指輪に一番騒然となったのは伊藤さんだった。これを見てブルーダイヤと見切った眼力はさすがだけど、相変わらず篠宮さんの誤解は解けてなくて、「パトロンと婚約するなんて非常識」なんて言っていた。
さすがにこのままにはしておけなくて、今度こそはちゃんと理解してもらおうと、伊藤さんを50階のトイレに連れて行った。
「あのね、伊藤さん。もう随分前から言ってるけど、あの人はパトロンじゃなくて、恋人なの! この指輪は、会社で働いてるあたしの虫除けとしてくれたの!」
もう絶対絶対これで分かってもらおうと思って、自分でも驚くくらい強い口調で言った。
伊藤さんはといえば、そんなあたしを見てキョトンとしてる。
「どうしたの?」
「前から言ってるって、私は初耳よ? いつ言ったのよ!」
逆に怒られちゃった。そういえば、ちゃんと言えたことってなかったんだ。
「それは、いつもあたしが言おうとすると、伊藤さんが「パトロンだ」って言っちゃうから、全然口を挟めなかったのよ」
「なんですって!? 人のせいにする気?」
「だって、本当のことだもの。いっつも、「あの人は恋人」って言おうとすると「だからパトロンでしょ」って。伊藤さんて、思い込みが激しいとか、言われたことない?」
「…………」
あの伊藤さんが、赤い顔をしてわなわな震えてる。こんな彼女を見るのは、久しぶりだわ。あのドイツとの会議で通訳をした時以来。また泣かれちゃうかな……と思っていたら、プイッと横を向かれてしまった。
「伊藤さん?」
「悪かったわね! そうよ、思い込みが激しいってよく言われるわよ! それがなに? 成績や仕事には関係ないでしょ!」
関係っていうか、影響は出てくると思うけど……言っても聞いてもらえそうにないかな。とりあえず今は、篠宮さんがパトロンじゃないことを理解してもらえれば。
「えっと……じゃあ、あの人が恋人だってことは、分かってもらえた?」
「ふん、あんなセレブと一体どこで知り合ったのか、私には不思議だけどね! でも、パトロンだろうと恋人だろうと、あんたの傍にあんな凄いイケメンがいるってことだけでも、私には屈辱的だわよ」
そ、そんなこと言われても……。
「全く、語学だけでなく、男まであんたに負けるなんて……こうなったら、絶対に社長夫人の座を手に入れてやるからね!」
こういうの捨てゼリフっていうの? を残して、伊藤さんは秘書室に戻って行った。えっと……社長夫人の座はもっと難しいような気がするんだけど……でも、篁さんには恋人がいるって言えないし。大丈夫かなぁ……。
なんて思っていたら、大丈夫じゃないのはあたしの方でした。
それからというもの、伊藤さんから色んなダメ出しをされちゃって……。それが嫌味とかではなくて、あたしが苦手だったエクセルの効率のいい使い方を教えてくれたり、コーヒーを美味しく作る工夫を教えてくれたり、ブランドに疎いあたしに、着て来た服やバッグや靴のことを教えてくれたり。
どうしちゃったの!? って思うくらいとっても甲斐甲斐しく教えてくれて、まぁ、伊藤さんなりの親切なんだろうとは思うのだけど、それがいちいち押し付けがましく見えちゃうのが難点かなぁ。せっかくの親切も言い方ややり方一つで迷惑に感じちゃうんだと、伊藤さんを見ていて思った。
急に親切になった理由は、それとなく訊いてみたら「あんなセレブと婚約しておいて、仕事が鈍くてブランドに疎いなんて許せないからよ!」って、プリプリしながら教えてくれた。
うーん、伊藤さんらしいって言えばらしいかな、そういう考え方って。まぁ教え方はともかく、あたしにとってはスキルを上げるいい機会になりました。