Act.8  乗り越えるべきこと ...10

 3月の海は、意外と風が強くて、ちょっと寒い。篠宮さんに言われて、ショールを羽織っていてよかった。
 あれからワンピースをジーパンとカットソーに着替えて、篠宮さんと海辺のデートをしてる。
 腕を組んだり肩を抱かれたりすると、砂に足を取られちゃうから、今は手を繋いで歩いてる。そういえば、こんな風に男の人と手を繋いで歩くなんて、したことなかった。篠宮さんとだって、これが初めてだもん。ちょっと照れるけど、嬉しい。
 篠宮さんがいる反対側……あたしの左側では、波が打ち寄せてる。たまに豪快な音と一緒に波がサーッと足元に来る。スニーカーがちょっと濡れる程度だから、あんまり気にしてない。
 篠宮さんもあたしも、さっきからずっと黙ったまま。あたしは波の音を聞いたり見たりしてるけど、篠宮さんは何を考えてるんだろ? もう20分もこうして歩いてる。
 その内に、砂浜が終わっちゃった。この先にも道はあるけれど、アスファルトの遊歩道になってる。
 どうするのかなって思って篠宮さんを見上げたら、繋いでいた手を解かれて左の肩を抱くように移動してきた。
「愁介? あっ」
 肩を抱かれたまま遊歩道に上がる。砂浜と遊歩道は、階段一段分くらいの高さしかないから移動するのは楽だった。遊歩道には何故かベンチが置いてあって、よく見ると道に沿っていくつかのベンチがあった。
 篠宮さんはすぐ近くのベンチに、先にあたしを座らせた。そして体を密着させるように、隣りに座る。篠宮さんの大きな胸に抱かれるような形になって、あたしはまたまた心臓が跳ね上がった。
「しゅ、しゅ、愁介? ど、ど、どうし」
「いいから、静かにしてろ」
 あたしの左手は篠宮さんの右手に握り込まれて、左肩は篠宮さんの左手に抱かれていて、あたしの右手の行き場所がありません。どうしようか考える前に、何となく自然に、右手は篠宮さんの背中に回っていた。暖かい背中。
 波の音と一緒に、篠宮さんの心臓の音も聞こえてくる。バレンタイン前に、チョコ屋さんの前で抱かれた時よりも鼓動がちょっと早いかも。もしかして、篠宮さんも緊張してるの?
 うわー、なんか、ちょっと、こういうのって、恥ずかしいというか照れるというか……。
「響子」
「は、はい!」
 急に声を掛けられて、飛び上がりそうになるくらい驚いた。また、意地悪く笑われちゃうかなって思ったけど、何故かそういう気配がなかった。
「一人で雪絵と暮らすのは、苦しいか? つらいか?」
「え…… えっと」
 どうして急にそんなことを!? あたしの位置からは、篠宮さんの顔は見えないから、何を考えてるのか全然分からない。顔を見れたとしても、あたしには分からないと思うけど。
「今までは、苦しいと思ったこともありましたけど、雪絵さんがあたしのことをちゃんと見てくれてるって分かったから……」
 今まであたしは、雪絵さんの言うことをちゃんとは聞いてこなかったもん。いつも勝手なことばかり言っていて、あたしの言うことは聞いてくれてないって思ってた。でも、今回のことであたしのことをちゃんと分かってくれてるって知ったから。
「お前が望むなら、雪絵を黙らせてやるぞ」
 そ、それは……ちょっとだけ期待しちゃうけど、そんなことはダメ! だって、庶民のあたしを指導してくれる人は、雪絵さんしかいないもん。マギーさんもいるにはいるけど、いつも頼る訳にはいかないし、たまにどっかズレてるし。
「愁介」
 あたしは顔を上げて篠宮さんを見上げた。怪訝そうにあたしを見る篠宮さんの目と視線が合う。
「あたし、大丈夫です。雪絵さんと一緒に住みますし、今まで通りに色々指導してもらいたいです。あたしは何も分からないから……」
「…………」
 篠宮さんはちょっと目を見開くようにして、黙っちゃった。もしかして、何か悪いこと言っちゃった!?
「あのっ愁介ぶはっ」
 何か言わなくちゃ! と思って声を掛けたら、篠宮さんの両腕が背中に回って、ギュッと抱きしめられてしまった。顔が篠宮さんの胸に当たって、ちょっと痛かった。
「響子は強いな」
「え?」
 今、信じられない言葉を聞いたような気が……。
 抱きしめられてる状態から無理に顔を上げて、篠宮さんを見上げる。うう……顎の下しか見えません。
「あの……あたしは弱いですけど……?」
「そういう意味じゃねぇ」
 篠宮さんの笑いを含んだ声が聞こえた。
「俺は耐えられなかったからな。新しい環境に」
「新しい環境?」
「セシルが俺を三代目に選んだ時、ヒューズは問答無用で俺をイギリスに連れて行った。当時から英語に不自由はなかったが、外人ばかりに囲まれてやりたくもないエインズワースの総帥をやらされて、気が狂いそうだった」
「…………」
 なんか凄い話をしてない? このまま聞いちゃってていいのかな……。でも、口を挟める状態じゃないし。
 呟くような篠宮さんの声が、耳と体と両方から聞こえる。
「使い物にならない俺をヒューズは無理に仕事をさせようとして、見かねたセシルが代行してくれた。半年間という条件でな」
「半年……」
「さっき療養で不在だったと言ったろ」
「あ!」
「2年半前の話だ。いや、あれから半年経ったから、3年前か」
 あれからっていつから?
 ずっと顎の下しか見えなかった篠宮さんが体を少しずらして、顔が見えるようになった。
 ドキッとした。だって、すごく熱っぽい瞳であたしを見下ろしていたから。
「愁介?」
「響子を初めて見たのは、半年の期限が切れる頃だ」
「それって、もしかして酔いつぶれた加奈子を引きずってた時の?」
 篠宮さんの顔が、フッと綻んだ。
 えー!? なんて偶然!! 加奈子が酔いつぶれたことだけじゃなかったんだ。その時に篠宮さんが日本にいなかったら、そもそも助けられることもなかったのね。あたしたちの出会いも、なかったんだ……。
 その事実にビックリしていたら、あたしの顎の下に篠宮さんの手が入って、見上げてる顔を更に上向かされた。
 近付いてくる篠宮さんの顔。自然に目を閉じたあたしの唇に、柔らかい唇の感触がきた。
 ただ触れてるだけなのに、今までで一番優しくて、一番熱いキスだった。

 
 

 静かなキスから解放されて、しばらくの間、篠宮さんと抱き合ってた。
 だんだん陽が沈んでいって、東の海の向こうから空の色が青紫になって、星が出てるのも見える。さっきよりもぐっと寒くなったけど、篠宮さんと体が密着してるお陰で、とても暖かい。
「愁介」
「ん、なんだ?」
 篠宮さんが少し離れて、あたしを見下ろす。とっても穏やかな顔をしていて、ちょっとビックリするくらい。
 さっきの篠宮さんの話を聞いて言おうか言わないか迷ったけど、やっぱり言おうと決めた。
「あたしは、そんなに強くないです」
「響子?」
「あたしが頑張っていられるのは、愁介のそばにいたいから。そのためには、こんなこともしなくちゃいけないんだって、ちょっとショックでもありましたけど……でも、好きな人のそばにいたいから頑張れたんです。そう思わなかったらきっと逃げ出していたから、だからあたしは強くないです。愁介の方が、ずっとつらかったでしょ?」
 最後の方は何だか照れ臭くて、篠宮さんの体に抱きつくようにして顔を隠した。
 抱き付いたあたしの背中を、篠宮さんの手が優しく撫でる。
「それを自分から言えるのが、響子のスゲェところだな」
「そ、そうですか?」
「ふん、素直に認めねぇところは、相変わらずか。寒くなってきたな、宿に戻るぞ」
「は、はい」
 久々に鼻で笑われた。でも、そうしてる方が何だか篠宮さんらしいって思った。
 空を見ると、夕闇はもう海の上に広がっていて、浜辺はかなり暗くなってた。危ないからって、帰りはアスファルトの遊歩道を歩いていく。
 歩く視線の遠くに灯台の光りが見えた。
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