Act.8  乗り越えるべきこと ...9

 どこに行くのかよく分からないけど、篠宮さんがカジュアルな格好だから、きっと敷居の高いところじゃないと思う。
 途中、駐車場のあるコンビニに寄って、篠宮さんがフェイスタオルとヒエロンを買ってくれた。袋の真ん中を思い切り叩くと冷たくなるやつで、それをフェイスタオルで包んで渡される。
「何ですか?」
「目に当ててろ。笑える顔になってるぞ」
「え!」
 目が腫れてて痛いのは分かってたけど、そんなに変な顔になってるの!? でも篠宮さん、凄い真顔なんだけど……。
「着くまで3時間は掛かる。それで顔を冷やして、見られる顔にしておけ」
「あ、ありがとうございます」
 3時間も掛かるなんて、どこに行くんだろう?
 シートベルトをして座席を少し倒した。これで瞼に当てていても、ずり落ちることはないと思う。
 タオルの中に指を入れてみたら凄く冷たくなってた。倒した座席に背中をつけて、タオルを瞼に乗せた。ひんやりしていて、痛くなってた瞼の熱が少し取れた気がする。
「あ、気持ちいい……」
 思わず呟いたら、隣りから篠宮さんの小さく笑う声が聞こえた。
「そりゃよかった。そのまま寝てりゃ着くぜ」
「え、でも……」
 運転する人の横で寝るのはよくないって、子供の頃お父さんに教えられた。
「どっちにしろ、今のお前の格好じゃ起きていても同じだ。今夜は寝かせてやらねぇから今の内に寝てろ」
 ぎゃ! そそそそれって……ひえぇ!
「わ、分かりました」
 とっさにそう言ったら、また意地悪そうな笑い声が聞こえた。でも、ちょっとホッとしたかも。篠宮さんの前であんなに大泣きしちゃったのに、いつもと同じ様に接してくれてるから。
 それからすぐに車が動き出したのが分かった。
 
 

**********

 
 
「響子、起きろ。着いたぞ」
 肩を揺すられて、パチッと目が覚めた。やだ、あたしホントに寝ちゃってた!
「す、すみません愁介、あたしホントに寝ちゃって」
「構わねぇよ、お陰で高速を飛ばしてこられた」
 飛ばしてって……車の時計を見てビックリした。コンビニに寄ってから2時間半くらいしか経ってない! 篠宮さんは3時間て言ってたよね!? スピードどれだけ出したんだろう……。
 座席を戻して窓の外を見たら、遠くに海岸線が見えた。
「海……」
「ああ、山にしようと思ってたが、今の時期じゃまだ雪がある。この車じゃ無理があるからな」
 山…… 空気が澄んでそうだもんね。でもあたしは海が好きだから、嬉しかった。
 平日だからかな、走ってる車は他に見ない。篠宮さんは快調に飛ばしてる。
「窓、開けてもいいですか?」
「ああ、ちょっと待て」
 そう言って、車のスピードを少し落としてくれた。
「いいぜ。全開するなよ、まだ寒いぞ」
「はい」
 パワーウィンドウを半分くらい下ろすと、潮の香りがして波の音が聞こえてくる。もうちょっと窓を下ろして、顔を外に出してみる。潮風が顔に当たって気持ちいい。
「ここ、どこの海ですか?」
 顔を引っ込めて、運転してる篠宮さんを見て訊いてみた。篠宮さんが言ったのは、日本……ていうか本州で一番早く日の出が見られるっていう場所だった。あたしは初めて来るところだわ。
「さすがに関東圏は出られないからな。ここなら何かあってもすぐに戻れる。セシルは海外に逃亡したこともあったらしいぜ。俺が国を越えてサボれるには、最低でも後20年は経たなきゃ無理だな。その頃にはもう引退してるが」
 篠宮さん笑って言ってるけど、サボれるのは今回しか出来ないのよね。あたしのために、貴重な機会を使っちゃったんだ。代わりになんて到底ならないだろうけど、あたしに何か出来ることってないかな……。
 ボーっと考えていたら、車がスピードを落として広い駐車場に入った。
「愁介?」
「降りるぞ」
「え!? でもあたしパンプスですよ?」
 着てるのもシャネルのワンピースだし。今日は大学だからって、雪絵さんが堅くない感じの紺のワンピースを選んでくれたけど、これで海岸を歩くのはちょっと……。変に目立っちゃうよ。
 そう言ったら、ペシッと頭をはたかれた。
「俺に抜かりはねぇ」
「はぁ……」
 大して痛くないけど、はたかれた所を手でさすっていたら、車を降りた篠宮さんがトランクから何かを持ってきた。
「あっ!」
 篠宮さんが新しく用意してくれた靴の中にあった、ヒールの高いスニーカーだった。
「着替えも持ってきてあるが、服はそれでも構わねぇだろ」
「あ、ありがとうございます」
 車内でパンプスを脱いで、コンクリートの地面に置いてくれたスニーカーをはいた。

 
 

 白い灯台は、見上げても大きい。灯台の他にもいくつか建物があって、観光名所みたい。灯台に上ったら水平線が見えると聞いたら見たくなった。
 灯台の中の階段は狭くて、しかも螺旋階段だから微妙に目が回る。結構な距離があって、上り切った時には息が上がってた。
「うわぁ、凄い!」
 柵に掴まって周りを見ると、左から右まで見えるのは海だけ! こんなにだだっ広い水平線は初めて見た。
 潮風がちょっと寒いけど、篠宮さんが後ろに密着して立ってくれてるから、背中は暖かい。
「愁介」
「ん、なんだ?」
 篠宮さんの声が、耳だけじゃなくて体からも響いてきて、ドキッとした。
「あの、今日はあたしのために、ありがとうございました。最初で最後のサボタージュなんて」
「別に、今後休みが一切なくなるって訳じゃねぇ。気にするな。今は、響子の方が大事だからな」
 う、うわぁ、もっと心臓がドキドキしてきた。こういうの、殺し文句っていうの!?
 何か言わなくちゃ! ドキドキがこませないよ!
「えと……あの、きょ、今日はこれからどうするんですか?」
「宿は確保してるが、他は決めてない。響子の好きにしていいぞ」
 そんなこと急に言われても、すぐには思い付かない。視線を海岸に向けたら、砂浜がずっと続いてる。そうだ!
「えと、じゃあ砂浜を歩くとか……いいですか?」
「そんなもんでいいのか?」
 上から聞こえてきたのは、意外そうな声。そんなに驚くことかな……。
「ダメですか?」
「そうじゃねぇが、他に行きたい場所とかねぇのか? どこでも連れてってやるぜ」
「あたしは、愁介と一緒にいられたら、どこでもいいです」
 だって、十分にしてくれてるし、これ以上は贅沢だよ。それに篠宮さんて目立つから、出来ればあんまり人のいるところには行きたくないし。
「この近くに宿がある。チェックインしてからでいいか?」
「はい!」
 うわぁ、篠宮さんと海辺でデート……か、顔が緩んじゃうよ!
 ウキウキしながら灯台を降りて、車に乗ってわずか5分くらいで、老舗って感じの旅館に着いた。篠宮さんだったら洋館とかホテルかなって思っていたから、老舗旅館というのは意外だった。
 車を駐車場に停めて、あたしが降りるのをエスコートしてくれると、篠宮さんはトランクを開けてボストンバッグを2つ取り出した。もしかして、あの中にあたしの荷物とかが色々入っているとか? 口を開けて篠宮さんを見ていたら、また意地悪そうな笑みを浮かべて、一つを掲げた。
「言ったろ、俺に抜かりはねぇって。必要な物は雪絵がこの中に入れた。何が入ってんのか知らねぇが、かなり重いぞ」
 たぶんそれは、いつも来てくれる美容師さん一押しのスキンケア一式が入ってるんだと思う。使う数も多いけど、ビンが重いのよ。
「ありがとうございます」
 掲げたバッグを受け取ろうとしたら、「荷物は男が持つもんだ」なんて言って、さっさと歩いて行っちゃった。慌てて追いかける。
 入り口の自動ドアを開く前に、中から制服を着た中年のおじさまが出て来て、「いらっしゃいませ、当館にようそこおいで下さいました」って恭しくお辞儀をしてくれた。もしかして、ここも篠宮さんがオーナー? それとも篠宮グループの旅館とか?
「お世話になります」
 おじさまの前で丁寧にお辞儀をしたら、「恐れ入ります」なんて言われて、またお辞儀されちゃった。やっぱり、篠宮さんが関係してるところなの?
 フロントで何か書いてた篠宮さんの傍に行って、手元を覗いた。書いてたのは宿泊票だった……け、ど、名前の欄を見て驚いた。
「あ、あの、これ」
「なんだ、おかしなことでもあるか」
 あるかって……あり過ぎですけど。篠宮さんの名前、「岡崎修輔」になってますよ? あたしは「岡崎恭子」……って、ふ、ふ、夫婦!?
「では岡崎様、お部屋にご案内いたします」
 玄関で迎えてくれたおじさまとは違う若い男の人が、篠宮さんの持ってたバッグを2つとも持って先に歩いていくのを、あたしは篠宮さんの後ろからついていった。
 建物は随分古くて、本当の老舗旅館て感じ。廊下に飾られてる白黒写真は、ここの昔の写真みたい。うわぁ、明治の文豪とかも泊まってたんだ。凄ーい、ホントの老舗だ!
 案内された部屋は、4階の最上階にある角部屋。襖で仕切られた和室が3つもあって、正面の窓からは海が見えて、壁の窓からはさっきの白い灯台が見えた。
「わぁー、真正面に海が! すごい眺めです!」
「お喜び頂きありがとうございます。後ほど担当の仲居がご挨拶に参りますので、それまでごゆっくりおくつろぎ下さい」
 若い男の人はそう言って、部屋を出て行った。
 あたしは正面の窓に釘付け。だって、こんなに間近に海を見ながら泊まれるなんて、初めてだもん!
「愁介、窓、開けてもいいですか?」
「構わねぇが、風邪引くなよ」
「はーい」
 鍵を開けて窓をちょっと開けてみたら、海風が結構強かった。
「さむっ……でも波の音がする〜」
「当たり前だろうが。後で散歩するんだ、もう閉めとけよ」
 言われて、それもそうかと思い、重い窓を閉めた。
 篠宮さんは座卓の傍に足を伸ばして座って、煙草に火を点けてた。あたしは篠宮さんの隣りに、足をまげて座る。
「あの……名前、どうして偽名にしたんですか?」
「俺を知ってる奴がいたら、面倒だからだ」
「はぁ……じゃあ、ここは全然関係ない旅館ですか?」
 そう訊いたあたしに、篠宮さんは溜め息をついて言った。
「でなかったら、サボタージュの意味がねぇだろ。調べりゃすぐ分かっちまうが、ぼんくら共は騙されてくれる」
 ぼんくらって……調べればすぐに分かるっていうのは、レオンさんやマギーさんのことよね。
「だから、旅館なんですね」
「どういうことだ?」
「愁介に旅館て、あんまりイメージじゃないから……」
 リゾートホテルのオーナーっていうのも、ちょっと先入観になってるかもしれないけど、篠宮さんにはお布団よりベッドが似合いそうだもの。
「ふん、だが、ゆっくりくつろぐにはこっちの方がいいだろ」
「それはそうですけど……あ、苗字が岡崎なのは、どうしてですか? もしかして、マスターと関係あります?」
「ああ、こういう時は使っていいって師匠から許可もらってる。さすがに名前だけなら、俺とは分からねぇだろ」
 あ、得意そうな顔。篠宮さんて、こういうちょっと子供っぽいところもあるよね。
 それから仲居さんがご挨拶に来てくれて、館内と食事の案内を簡単に説明してくれた。部屋の中でご飯が食べられたり、広いお風呂が付いていて、しかも露天風呂まであった。もしかして、ホテルでいうところのスウィートルームなのかな?
 凄いとは思うけど、それに感動しなくなってきてる自分にちょっと驚いて、そして自己嫌悪になった。こういう状況に慣れちゃうのはよくないよ! 気を付けなくちゃ!!
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