Act.8  乗り越えるべきこと ...1

『明日だがな、午後からオフにした。出掛けるぞ』
 バレンタインデーを翌日に控えた夜、急に篠宮さんから電話が来た。イギリスから帰ってきて一回電話で話したけど、会話らしいことが出来たのはその時だけ。あれから3日が経ってた。
「あたしは元々空いてましたから大丈夫ですけど、し、愁介っ……はいいんですか?」
『ふん、少しは努力してるようだな』
 うう……篠宮さんがそうしろって言うから頑張ってるのに。……なんて、やっぱりあたしには言えずにいたら先に話を進めていった。
『頑張ってるお前に褒美をやるよ、アパートに迎えに行く。そうだな、13時30分には着くだろう。服は響子に任せる。とりあえず自分が一番綺麗に見える服を着て来い』
「あ、あの中からですか!?」
『それ以外にお前に服があるのか?』
「な、ないですけど……」
『じゃあな』
 そう言って携帯の通話がプチッと切れた。最後に小さくクリスさんの声が聞こえたから、またお仕事かな。
 バレンタインかぁ。篠宮さんに贈るために、ゴディバの一番濃いビターチョコレートを3個買ってある。ちゃんと可愛い箱に入れてもらって、バレンタインらしくラッピングしてもらった。この前の苦いチョコでも篠宮さんにとっては「あんまり甘くない」程度だったから、あんまり数があっても食べられないかと思ってこの数にしたけど、いいかな……。
 
 

**********

 
 
 翌日、またドキドキしてよく眠れなかったあたしは、朝6時に起きて入念に準備をした。
 会社に行く時はお化粧とかあんまり気にしなくても、篠宮さんに会う時はやっぱり綺麗に見せたい。マギーさんに教わったメイクをちょっと薄付きにして、髪は伸ばしてブローして、クローゼットを開けて固まった。
 あたしが綺麗に見える服ってなに?
 うーんうーん……うーんうーん……分かんない!
 しょうがないから、最初にマギーさんが出してくれたシャネルのスーツにした。あたしにはよく分からないけど、でもマギーさんがあたしにって出してくれたんだから、似合うんだと思う。
 服を着てクローゼットの扉に付いた鏡を見ていたら、ぐ〜っとお腹が鳴った。
 それで初めて気づいたあたし。朝ご飯食べてないじゃん! 篠宮さんが迎えに来るって言ってた時間もお昼過ぎだし、このままじゃ空腹で死んじゃうかも。
 シャネルのスーツ着てお料理なんて、とても出来ない。せっかく着たスーツをいそいそと脱いで、部屋着に着替えてご飯を作る準備をした。

 
 

 食事もしたし、歯を磨いてスーツも着てコートと靴とバッグも用意して、後は出るだけという状態にしておいて、やることのないあたしはテレビを見ていた。
 バレンタインデーだからかな、どの局もチョコ屋さんとか街中のカップルにインタビューしたりしてる。あ、この前篠宮さんと行ったチョコ屋さんも出てる。
 ひえぇ! 『恋人同士が幸せになれるチョコ』なんてキャッチフレーズがついたチョコがある! あの時に篠宮さんが買ってくれた甘いチョコだった。うう……恥ずかしい。テレビの前なのに下を向いちゃった。お店の販売員のお姉さんが、あの時のことを話してる声が聞こえてきて、慌ててチャンネルを変えた。
 もう二度とあのあの店に行けない。行く用事もないと思うけど、会社の近くだから通勤する時は気を付けなくちゃ!
 はぁ……肩を落として溜め息をついた時、部屋の呼び鈴が鳴った。時計を見ると約束の時間の5分前。
 急いで立ち上がってコートを羽織ってバッグを持ってパンプスを履いて、玄関のドアの鍵とチェーンを開けた。一瞬、以前のデートの日のことが思い出されて、ちょっと不安になった。もしかして、またクリスさんだったらどうしよう!?
 ちょっと躊躇してからドアを開けると、そこにいたのはちゃんと篠宮さんで、黒いロングコートを着て立ってた。スーツとシャツも黒っぽくて、凄くお洒落に見えた。
「あ…… えと、こんにちは、し……愁介っ」
「くっくっくっ、何だよ、その挨拶は」
 む……笑われちゃった。
「だ、だってこの時間じゃあ、おはようございます、はおかしいじゃないですか」
「ま、お前らしくていいけどな。行くぞ」
「あ、はい」
 ドアを閉めて鍵を掛けてから篠宮さんを見ると、あたしを見下ろしてニヤニヤ笑ってた。
「な、なんですか?」
「それが、お前が一番綺麗に見えると思った格好か」
「そ、そうですけど……」
 やっぱり、マギーさんのコーディネイトそのままっていうのは、まずかったのかな……。不安になっていると、フッと息をつくように笑った。
「し、愁介?」
 うう、篠宮さんと言いたい! せめて愁介さんと言いたい!!
「いや、今のお前じゃそれが精一杯ってところだろうな」
「だ、だって、あたしに合う物なんて分かりませんもん」
「まぁ、お前相手に急ぐのはやめたからな。その内いやでも分かるようになるさ。付いてきな」
 え? と思った時には、篠宮さんはもうあたしに背中を向けちゃって、階段を降りるところだった。慌てて後を追い掛けると、あたしに左手を差し出してきた。
「え、しの……愁介?」
「今のは聞かなかったことにしてやる。これからは気を付けろよ」
「は、はい」
 うう……これだけはもう地獄のようだわ。
「手を出せ」
「はい?」
 よく分からなくて右手を出すと、手首を握られて階段を降りた。
「し、愁介……」
「しっかり付いて来いよ。足を踏み外したりしたら、せっかくのデートが台無しだぜ」
「う、わ、分かりました」
 腕をちょっと引っ張られるような形で降りる階段は、ちょっと狭いこともあって大変だけど、でも手首に感じる篠宮さんの手にドキドキしてた。
 あたしの手、あんまり綺麗じゃないなぁ。ネイルケアとかしてないし、短く切った爪にちょっと背伸びしてマニキュアを塗ったくらい。やっぱりこういうブランドのスーツを着るなら、こんなところにも気を遣った方がいいのかな……。
 アパートを出ると篠宮さんの車が道路脇に停めてあった。黒光りしていてカッコイイ。
 篠宮さんがクリスさんがしてくれたように、助手席のドアを開けてくれた。あたしが乗るとドアを閉めてから、篠宮さんが車の後ろを回って運転席につく。すぐにエンジンを掛けて走り出した。
 土曜日のお昼時でも、道路はそれなりに混んでる。渋滞にはなっていないけど、スピードはあまり出てない。篠宮さんは、煙草を取り出して吸い始めた。ちゃんと、窓を開けてくれてる。車に乗ってもコートは着ていたから、全然寒くない。ヒーターも入っているし。
「着く前に言っとく」
「はい……あ、これからどこに行くんですか?」
 着く前と言われても、どこに行くのかまだ知らされてなかった。煙草を咥えた篠宮さんは、笑って言った。
「着けば分かる」
 ど、どこに行くんでしょうか? 篠宮さんの笑いが怖い!
「話を戻すが」
「は、はい」
「セシルにお前のことを話した結果、俺に婚約者がいるって噂が世界中に駆け巡った」
「え……」
 ええー!? そんな、篠宮さんが帰ってきてからまだ3日しか経ってないですよ!?
「ただ、それが誰かまでは知られてねぇから安心しろ。それは俺の権限を最大限に使って阻止してる」
 はあ……篠宮さんの権限を最大限に使うって言ったら、どのくらいなんだろう? 全然想像付かない。
「まぁそれはいい。だが案の定というか、セシルがお前に会いたがった」
「ええ!? それは無理です!」
 とっさにそう言ったら、それまでどことなくご機嫌斜めだった篠宮さんが、ちょっと笑った。うわぁ……カッコよくて見惚れちゃった。
「ふん、今はな。結婚するなら最低でも3年後っつったら、それまでに連れて来いとさ」
「連れてって……」
「イギリスにってことだろ」
 やっぱり、そうですよね。
「で、今のお前じゃ決定的にヤバイことが一つある」
 一つどころじゃないと思うんですけど……。そう思いながら篠宮さんを見たら、何故かあの意地の悪そうな顔。え、なに? また嫌な予感が……。
「エインズワースの内部ってのは、基本的に世界共通語でしか言葉が通じねぇ。つまり英語だ」
「は、はぁ……」
「お前、これから週二でいいから英語を勉強しろ」
 やっぱり! ああ……また試練が増えちゃった。
「ちょうどクリスも髪を元に戻して、一端の外人になるっつってるから、一緒にやってこいよ」
「えと……クリスさんと一緒に英語の勉強ってことですか?」
 何気なく訊いてみたら、篠宮さんから厳しい言葉が飛んできた。
「ああ……お前今『さん』付けたろ。外では気を付けろ」
「う、は、はい」
 やっぱり普通に言ったら出ちゃうよね。っていうか、あたしより7歳も年上の人を呼び捨てになんて、よっぽど気を付けないと出来ないもん。……今更思ったけど、あたしと篠宮さんて7歳も違うんだ。篠宮さんから見たら、あたしなんてまだまだ子供よね。
「クリスの英語の教師は、レオンとマギーだ。お前もその方がいいだろ」
「あの、でも、いつやるんですか?」
「あの二人がオフの時しか出来ねぇからな」
 あ、それで週に二日なんだ。
「でも、せっかくのお休みの日にご迷惑じゃ……」
「その心配はいらねぇよ。マギーはともかく、レオンはオフの日でも仕事しに来るからな。ワーカホリックなんだよ。だから、逆に俺から何か指令してやった方があいつにはいいのさ」
 そうなんだ、レオンさんてお仕事人間なんだ。でも、クリスさんと一緒に英語の勉強なんて……あたし一体どれだけ試練を受けたらいいの!?
「はぁ……」
 思わず溜め息をついたら、篠宮さんの手が優しく頭を撫でてくれた。
「そう深刻になるなよ。日本語しか話せねぇクリスと違って、お前はドイツ語が話せる。それだけで周りの心象は違うぜ。だが、相手が何を話しているか知っていないと、お前が苦労することになる。今は大変でも、2〜3年後には問題ねぇよ、響子ならな」
「う……は、はい……」
 やっぱり、その2〜3年後のあたしが、英語をしゃべれているかどうかなんて想像も出来ないけど、あたしが出来ないときっと篠宮さんが恥をかいちゃうことになるんだと思う。それは絶対に避けたいから、頑張ろう。
「ふん、やる気になったみてぇだな」
 嬉しそうな篠宮さんの声。あたしってば、また顔に出ちゃってたんだ。
「あたし、そんなに顔に出ますか? 最近は鏡を見て表情の練習とかしてたんですけど」
「そりゃな、目が違うから分かるさ」
「目?」
 いつの間にか信号で車が止まってた。篠宮さんを見るとあたしを見つめていて、ビックリした。
「え……あ、し、愁介?」
「そいつが真剣に考えているかどうかは、目を見れば分かる。お前が本気になった時は、目の輝きが違うからすぐ分かるぜ」
 め、目の輝きー!?
「そんなものあるんですか!?」
「それがねぇ奴は、やる気のねぇ奴ってことだ。どんなことでもな」
 そ、そういうものなの? あたしにはよく分からない。あ……でも清水さんから、目を見たら分かったって言われたことがあったっけ。
「セシルは、そういうところをよく見てる。響子なら、すぐに気に入られるさ」
「は、はあ……」
 やっぱり、篠宮さんとお付き合いするって色々大変なんだ。あたし、大丈夫かなぁ……。
 不安になりながら窓の外を見ていたら、銀座に来ていた。どこかのビルの駐車場に入っていく。
 車から降ろされて、篠宮さんに肩を抱かれてエレベーターに乗って降りた場所は、何だか高級ホテルのフロントみたいなところ。でも、ここホテルじゃないよね?
 綺麗なお姉さんたちが受付をしていて、篠宮さんが名乗ると慌てて奥に入っていく。後から出てきた人は、清水さんよりちょっと年上の女の人。あたしたちにとても丁寧に頭を下げた。
「篠宮様、島谷様、お待ちしておりました」
 うわ……緊張。篠宮さんはあたしの横で、当然のようにそれを受けてるし。
「ああ、響子を頼む。全て任せるから、こいつ自身が自分の外見に自覚を持つようにしてやってくれ」
「かしこまりました」
 ええ!? か、かしこまらないで下さい!
「し、愁介っ、あたしそんな話し聞いてません」
「言ったらお前、来るの嫌がるだろ」
「う、で、でも……」
 何をやらされるのか、凄く不安なんですけど!?
 そう目で訴えたら、ポンポンと頭を撫でられた。
「お前は何も考えずに、されるがままになってりゃいい。とにかく行って来い!」
 言葉と共に背中を押されて、女の人の前に一歩出た。その人はニッコリ笑って言った。
「島谷様、どうぞ私どもにお任せ下さい。ご心配なことがおありでしたら、何なりとお訊き下さいませ」
「あ、は、はい。よ、よろしくお願いします」
 ペコッと頭を下げてから顔を上げると、女の人は優しそうに微笑んでた。ちょっとだけ、安心出来たかな。
「じゃあな、変身してこい」
 そう言って、篠宮さんは豪華そうなソファに座った。
 え!? 中に入るのはあたしだけ!?
「どうぞ、島谷様」
 女の人に促されて、あたしは恐る恐る後をついて行った。
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