Act.7  試練、再び!? ...14

 エレベーターの扉が開いて、そおっと顔を出した。ホッ、誰もいない。こんな時間じゃ、伊藤さんか清水さんしか来てないよね。とりあえず伊藤さんに会わなくて安心した。
「おはようございます」
 秘書室に入ると、いたのは清水さんだけ。伊藤さんがこの時間にいないなんて、珍しい。久しぶりに清水さんと二人だけの朝の時間だ。
 清水さんが、リズムよくキーを打っていたパソコンのモニターから顔を出す。
「あら、おはよう島谷さん。まぁ、今日はシャネルのスーツね」
「え!? あ、は、はい」
 え、これシャネルなの!? そのブランドなら、あたしでも知ってるよ。そんな凄いところのスーツだったなんて知らなかった。
「いいじゃない、似合うわよ。今日みたいに大事な仕事がある日は、そうやって良い物を着て気合を入れるのも、いいことよ」
「あ、あ、ありがとうございます」
 そっか、そういう考え方もあるんだ。だからマギーさんはこれを選んでくれたのかも。
 篠宮さんに持たされたルイ・ヴィトンのバッグとコートをロッカーにしまって、自分のデスクについた。
 パソコンの電源を入れて起動するのを待つ。そういえば、今日は初めて新人秘書が全員揃うんだよね。あたし変な格好になってないかな……。凄く心配になってきて、席を立って清水さんのところに行った。
「あの……清水さん」
「なに?」
「と、トイレに行ってきていいですか?」
 普通に訊いたつもりなのに、清水さんはキョトンとした顔をして、それからプッと吹き出した。
「ふふふ、ごめんなさい」
 謝りながらもまだ笑ってる。あたし、そんなに変なこと訊いた?
「あのね、島谷さん。私たちの就業時間は9時からなのよ。それまでは何をしようと自由なの。それにトイレくらいなら、そんな深刻に断りを入れなくても、自由に行っていいわよ」
「あ……はい」
 うわぁ……もう恥ずかしくて、お辞儀も早々に秘書室を出た。
 トイレに行ったら伊藤さんと会っちゃうかも……と今更後悔したけど、結局誰にも会わずに洗面台の鏡の前に立った。
 顔……さっきは厚塗りって思ったけど、こうして時間が経ってくると馴染んできたかも。いつもよりお化粧のノリがいい感じなのは、きっといいローションとか使わせてもらったからね。
 もしかして今日のって前に碧さんが言ってた、『環境が変われば性格も変わる』っていうのを、篠宮さんってば実践するつもりなのかな……多分そうだよね。名前を呼び捨てにさせたり、うわぁ……あたしついて行けるかしら……うう、不安。
 あ、そうだ。今日は確か碧さんが出張クリニックで会社に来てる日だわ。会議が終わったら会いに行ってこよう。伊藤さんのことも相談すればいいし。
「うん……よし!」
 もう一度鏡の中の自分を見て、頷いた。篠宮さんのお嫁さんなんてまだまだ自信ないけど、出来ることはやってみよう。先ずは今日の会議の通訳だよね。この前よりもスムーズに出来るように頑張んなきゃ!

 
 

 秘書室に戻ると、都賀山くんと辻村くんが来ていた。伊藤さんはまだ来てないんだ。もう少しで9時になるのに。
「おはよう、島谷。今日は凄ぇな」
「都賀山くん、おはよう。凄いって何が?」
 そう訊いたら、都賀山くんが凄く驚いてあたしのスーツを指差した。
「それシャネルのオートクチュールだろ。知らないで着てんの?」
「え……お、オートクチュール? ううん、知らない」
 言葉としては聞いたことあるけど、意味なんて知らないし。そう言ったら目を丸くして、でもちゃんと教えてくれた。
「早い話が、一点物のどえらい高級品ってこと」
 い、一点物……。メイドさんがいるマギーさんには普通かもしれないけど、あたしには恐れ多い服だわ!
「都賀山くんてブランドに詳しいのね。女物もチェックしてるんだ」
 正直に感心して言ったら、ふふん、と胸を張られた。
「当たり前だろ。ラテンをめざしてんだぜ、女が身に付ける物を知らないでいられっか」
「あ……うん」
 都賀山くんて悪い人じゃないんだけど、時々こういうよく分からないことを言うのよね。だから、いつも曖昧な返し方になっちゃう。でもラテンを目指してるだけあって、イタリア語とスペイン語にポルトガル語が得意。通訳は無理だって言ってたけど、電話で話してるのを聞くと、とっても流暢に話してるのに、なんで?
 辻村くんはいつも通りというか、ポーッとした顔であたしを見てるし。
 辻村くんは外国語で得意なのは英語だって。しゃべってるところを一度見たことがあるけど、凄いペラペラでビックリした。あと、記憶力が凄いんだって。速読も出来るし、人は見掛けによらないってホントだなって思う。
 自分で思っててちょっとへこんだ。あたしは全然ダメダメだから。
 悪い考えは頭から追い出して、自分の席について昨日整理したドイツ語の資料を出した。見直しみて、覚えたことは忘れてはいなかったけど、やっぱり不安。
「おはようございます」
 颯爽と入ってきたのは支倉さん。今日は篁さんと同行で、お昼からずっと出る予定になってる。
 次に来たのは奈良橋くん。挨拶して入ってきた後、あたしを見てちょっと首を傾げて、それから何故か溜め息をついて自分の席についた。何だろう? と思っていたら、奈良橋くんに続くように伊藤さんが入ってきた。
 珍しいな、伊藤さんがこんなに遅く来るなんて。まだ9時前だけど、いつもあたしより先に来ているのに。それに、目の辺りがちょっと腫れぼったい感じがする。どうしたのかな、と思って見ていたら目が合ってしまった。
 ……え、なんでそんなにあたしのこと睨んでるの?
 訳が分からなくて、でも刺激したくなかったから何も言わずにノートに視線を落とした。伊藤さんも何も言わずに、あたしの後ろで席につく音がする。
 なになに!? 本当に何なの、今日は!?
 何とも居心地の悪い時間が過ぎて、9時45分になった。
 席を立ってコーヒーを作りに行くと、辻村くんが先に来て作業していた。あたしを見ると、急に顔を真っ赤にしてわたわたしてる。……あたしも、こんな風に見えてるのかな。
「あ、辻村くん。ごめんね、やってもらっちゃって」
「そんなのいいです。島谷さんがいつもやってるから、たまには僕がやります」
 辻村くんはそういう癖なのか、あたしたち同期のみんなにも敬語で話す。あたしも、伊藤さんには最初の内は敬語使っちゃってたけど、やっぱりこうして聞いていると、ちょっと違和感はあるかも。
「えと……じゃあお願いします」
 ぺこッと頭を下げて自分のデスクに戻ろうとしたら、呼び止められた。
「あ、あの、し、島谷さん、昨日一緒に歩いてた男の人って…… その」
 それを聞いた時のあたしの衝撃といったら! 穴があったら……ううん、自分で穴掘ってでも隠れたかった。
「昨日って……辻村くん、見てたの……」
「あ、あのっ、奈良橋さんと伊藤さんも……」
 ガーン! 伊藤さんにまで!? さっきのあの睨みってそういうこと!? 何かの間違いで……と願いつつ、恐る恐る訊いてみた。
「あの……それってもしかして、会社からの通りにあるテレビとかで有名なチョコ屋さん?」
「…… うん」
 辻村くんはちょっと躊躇して、それから頷いた。
 で、でもお客さんの中に男の人の姿があったらすぐに分かるし、まして伊藤さんがいたらあたし絶対にすぐに気付くよ!
「あの……凄くカッコイイ男の人とお店の近くでだ、抱き合ってましたよね。奈良橋さんと伊藤さんが一緒に帰って、僕は奈良橋さんに誘われて一緒にいて、それで見たんです」
 だ、だ、抱き合ってって……あ! お店を出てからちょっと立ち止まってた時!? うわぁ……あの場面を見られてたのは恥ずかしいけど、お店の中でキスされた時を見られてないだけまだマシ。あんなとこ見られちゃってたら、死ぬほど恥ずかしいよ!
 でも、三人で一緒に帰ったりすることもあるんだ。奈良橋くんと伊藤さんは同じ大学で知らない仲じゃないし、奈良橋くんは辻村くんを何かと気に掛けてるから、そういうこともあるよね。あたしは一人で帰ることが多いから、全然知らなかった。
 ああ……でもつくづく、キスで口の中のチョコレート取られるところを見られなくてよかった。
 ホッとしていると、辻村くんはそそくさって感じでコーヒー作りに戻っちゃった。
「えと……じゃあ後よろしくね」
 あたしもそそくさと自分の席に戻った。チラッと伊藤さんを見てみると、ご機嫌斜めな顔でパソコンを操作してた。篠宮さんとのこと、またトイレで質問攻めされちゃうのかな。今日は午後から大仕事があるから、なるべく煩わされたくないのに。
 あ、清水さんからメールが届いてる。開いてみると、社長とあたしたちの今日のスケジュールが、それぞれタイムテーブルみたいになってる。
 そういえば昨日清水さんが、全員にスケジュールを配布するって言ってたっけ。伊藤さんがあんな形であたしの仕事について絡んできたのが、清水さんとしては心配だったみたいで、今日からそれぞれの仕事をオープンにするんだって。
 うわ……篁さん、今日も分刻みのスケジュールだわ。午後からは支倉さんが同行で、関連会社回りか……あ、都賀山くんも一緒なんだ。あたしの次に入ってきたから、順繰りで同行デビューするのね。でも、あたしは取引先に一人で同行させられたのに、都賀山くんは関連会社で支倉さんがサポートに付くんだ。なんだかちょっと羨ましい。
 辻村くんと奈良橋くんは、秘書室で待機。待機といってもやることも覚えることもたくさんあるから、それほど楽じゃないよね。
 あたしは、午前中は会議の打ち合わせで、会議は午後13時から15時。前より一時間少ない。こ、これは心してやらないと! 前は30分延びちゃったから。
 うん? 伊藤さんも午後は会議なんだ。ちょうどあたしと同じ時間帯。やっぱり通訳につくのかな。韓国語と中国語が出来るって凄いと思う。あの言葉、あたしには宇宙語みたいに聞こえるもん。

 
 

 前は国際管理部で打ち合わせしたけど、今日は46階の会議室でやった。時間になったらそのままここで会議が出来るから、どこの部署も使わなければ打ち合わせもここで出来る。移動しないで済むから、色々楽よね。
 11時30分になって打ち合わせは終了し、ちょっと早いけどお昼休みになった。お昼休みは必ず60分取る、というのが篁さんの方針。その時々の状況で臨機応変に時間をずらしていいんだって。会議開始の30分前には集合ということで、あたしたちは解散した。
 あたしは、普段から社内を移動する時に持ち歩いてるポーチを持って、トイレに向かった。今からエレベーターホールに行くと、チームの人たちとかち合っちゃうから。今は新谷さんとも普通に話せるから別に嫌いな人がいる訳じゃないんだけど、午後は緊張のしっぱなしだから、出来ればお昼は一人で過ごしたかった。
 個室に入ってしばらくしてから出て行くと、エレベーターホールには誰もいなかった。
 一人でラウンジに降りると、規定の時間よりも早いからか席はガラガラ。でも全く人がいない訳ではなくて、忙しい部署は時間差でお昼休みを取ってるから、それなりに人はいた。
 倉橋課長たち4人共、一緒のテーブルでご飯を食べてるのが見える。成田さんがあたしに気付いて手招きしたら、倉橋課長がそれを止めてくれた。成田さんは不思議そうな顔をしていたけど、あたしは倉橋課長にお礼の意味を込めて頭を下げた。今は本当に一人になりたいから。
 ここでの定番になりつつあるオムライスをトレイに乗せて、窓際の見晴らしのいい席についた。熱々の玉子とチキンライスをふーふーして一口食べる。うん、美味しい。
 篠宮さんは今頃飛行機の中だよね。ロンドンに着いて本部に到着したらすぐ会議だって言ってたから、今は貴重な睡眠時間かな。あんなに忙しい人なのに、あたしにまで気を遣ってもらっちゃって……悪いなぁって思うけど、だからってあたしはすぐに篠宮さんの言うようには出来ないし……。
 はぁ……考えてもしょうがないよね。やっぱり夕方になったら碧さんのところに行こう。
 黙々とオムライスを食べていたら、ヒソヒソする声が聞こえてきた。視線も感じたからそっちを見てみたら、お化粧バッチリのお姉さんたちが3人、あたしを見て内緒話をしていた。どこの人たちだろ? 正式な社員証を付けてるから、みんなあたしより年上だよね。
 その中の一人と目が合っちゃって、ペコッとお辞儀をしたら「きゃ〜」って小さな悲鳴を上げて、嬉しそうにはしゃいでる。
 え、え、何で?
 気にはなったけど、午後からの会議の方があたしには重大事だから、もうそっちは無視してオムライスを食べることに専念した。…… するつもりだったのに、やっぱり後ろのお姉さんたちが何を言っているのか気になって、そっと耳をすませてみた。

 

「ねぇねぇ、あの子でしょ。今年社長秘書で入った美人で有能な人って噂になってるの」
 いえ、美人で有能って言ったら、それは伊藤さんです。良かった、勘違いされてるだけだった。
「うんうん、綺麗な子だよねぇ。ドイツ語もペラペラなんでしょ? あのイケメン社長も外国語ペラッペラだし、一緒に仕事してたら最強よね!」
 え!? 伊藤さんが得意なのは中国語と韓国語だよ? なんか情報がゴチャゴチャになっているみたい。
「そういや、もう一人入ったんだって、聞いた?」
 あ……これあたしのことだわ。凄い気になる……なんて言われるんだろ!?
「聞いたよー、外面だけはいい腹黒女って」
 は、腹黒……あたしってそんな風に思われてるの!? すごいショック……。
「あたし、あの女嫌い。知ってる? 昨日、社長と同じテーブルでランチしたらしいんだけど、そいつ社長に色目使ってたって!」
 え……色目って……あ、もしかして伊藤さんのこと? ええ!? じゃあ最初の美人で有能ってあたしのこと!? いやいや、ただの噂だもん。でも……噂になるってことは、あたしってそう見えるの?
「聞いた聞いた、その話。まぁ美人は美人だけどさぁ、あの子に比べたら月とスッポンよね。しかも性格ブスだし。自分の方が偉いなんて気ムンムンでさぁ、なに勘違いしてんだって! あんな女があの社長の傍にいるなんて、腹が立つー!」
「あたし見たよ、それ! しかもあいつ社長がいなくなった途端、あの子に凄い睨みきかせてたし! あたし、気の毒になったもん」
「あんな女と一日顔を付き合わせてなきゃいけないなんて、あの子が可哀想。あたし、ああいう子が社長の傍にいるなら、全然許せるよ」
「だよねぇ。なんであんな女が社長秘書なんかに採用された訳?」
「知らない。人事部のお偉いさんを色気で買収したんじゃないのぉ?」
「やだぁ! あははは、でも、あの女ならやりそうよね」

 

 ……どうしよう、凄いこと聞いちゃった。伊藤さんて、他の人たちからそんな風に見られてるの?
 教えてあげた方がいいかなって思ったけどやめた。あたしが偶然聞いちゃっただけだし、本当にあたしと伊藤さんのことだったか分からないし、逆にあたしが伊藤さんに責められそうだし……。
 それからは、お姉さんたちの話があまり聞こえないようにして、本気でオムライスを食べることに専念した。
 いつもよりずっと早いペースで食べて、食器を返却する時は、あのお姉さんたちの傍を通らないようにして、逃げるようにラウンジを出た。
 会社って怖いところだわ。昨日のことがもう噂になってるし、不確かなことも真実みたいに言われちゃうんだもん。伊藤さんがあたしに理不尽なことを言うのは本当だけど、人事部の偉い人を色気で買収なんて、そんな酷い中傷……。あたしも気を付けなきゃ、篠宮さんとのことが噂とかなったら、篠宮さんや篁さんが困るもの。
 会議室に戻ったら、まだ誰もいなかった。自分用に持ってきたペットボトルのミルクティを飲む。ちょっと温んじゃったけど、それでも胸に支えた様なモヤモヤっとしたものは、一緒に飲み込めた。
 はぁ、ダメダメ、何事もポジティブにだよ! とにかく、今は午後からの会議に集中しなくちゃ!
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