Act.7  試練、再び!? ...7

 すぐにチンッと音を立てて扉が開く。乗り込もうとして、一人だけ乗っているのに気付いた。
 両手をズボンのポケットに入れて、何だか凄く偉そう。深い紅っぽい色のシャツに黒っぽいネクタイ、ボルドーのスーツはベストなんかも付いていて、これって三つ揃いっていうやつだよね。凄く仕立てが良さそう。それに何ていうか、全身にオーラみたいのが見えます。
「あ、すみません。お先にどうぞ」
 こんな人と二人っきりでエレベーターに乗るなんて、あたしには無理。開いた扉の前で立っていたら、よく知ってる声が聞こえた。
「なに言ってる。とっとと乗れ」
「え? ……あ、し、篠宮さん!?」
 乗ってたのは篠宮さんだった! なんで!? あ、上にいるんだっけ。でもどうしてこのタイミングで……あっ! さっき篁さんが電話していたのって篠宮さん!?
「俺以外にいるか! 洸史に同行すんだろ、下まで送る」
「う、え、は、はい」
 ひえぇ、篠宮さんのお見送りなんて、なんて贅沢な! 口を開けてその場で見ていたら扉が閉まり掛けて、篠宮さんがボタンを押して扉を開けてくれた。
「さっさと乗れ。俺に開ボタンを押させるのは、お前くらいだぞ」
「あ、す、すみません!」
 慌てて乗ったら扉が閉まって、すぐにあの浮遊感が身体を包んだ。
 目の前にいる男の人がいつもの篠宮さんとは違っていて、上から下までジロジロ見ちゃった。
「えっと……篠宮さん、ですよね?」
「お前は、恋人が分からねぇのか?」
「だ、だって……いつもと雰囲気とか格好が違うんですもん。もしかして、お仕事仕様なんですか?」
「それ以外にあるか」
 うう、凄く不機嫌そう。すぐに分からなかったからって、そんなに怒ることないじゃない。だって、本当にいつもの篠宮さんとは感じが違うんだもん。そういえば、去年ホテルで会った時も、こんな感じだったっけ。
 でもこんな昼間っから、しかも勤務中に会うなんて初めてだし。何だか恥ずかしくてモジモジしていたら、肩を掴まれて胸に抱き込まれてしまった。
「し、し、篠宮さん!?」
 うわぁ、目の前には高級そうなネクタイとスーツの襟が。お父さんに贈ったのより数段、モノが良さそう。あ、煙草の匂いがする。背中に回された男の人の腕の感触は、やっぱり篠宮さんのもので、心臓がドキドキしちゃった。こんなところで会えるなんて思ってもいなかったから、ちょっと嬉しくなってスーツに顔をすり寄せた。
「伊藤美華ってのに、相当やられてるんだってな」
「な、なんで知ってるんですか!?」
「俺が知らねぇとでも思ってんのか? ったく、洸史も厄介な女を入れやがって」
「あ、でもそれ。伊藤さんがあたしに突っかかる理由が分かったので、もう大丈夫です」
 ただの誤解だったし。そう言ったら、ポンポンと頭を撫でられた。あ……篠宮さんに頭を撫でられると、気持ちいい。
「この前電話で言ってたの、そういうことだったんですね。篁さんは、伊藤さんのことを知っていて秘書にしたんですよね?」
「だから、あいつは面倒臭ぇんだよ。碧でなかったら、誰も相手なんかしねぇぜ。本心が分からねぇからな」
「ですよね……碧さんて偉大だと思います。あっ」
 更に強く抱きすくめられた。篠宮さんの顔が襟元に来て、なんだかくすぐったい。
「お前は、相変わらず他人のことはよく分かるんだな」
「う……そ、そうみたいです」
 もうここまで来ると、それは認めないといけないみたい。
 もっと篠宮さんを感じたくて、篠宮さんの背中に腕を回した。あ、なんだかこの密着度、凄く心地良い。
 篠宮さんが顔を上げて、あたしの顎の下に手を入れた。グキッと首を上向かされて、あって思った時にはキスされてた。
 え!? ちょっと待って、今から篁さんと会社訪問に行かなきゃいけないのに、こんなこと! ひえっ、舌、舌が入ってるんですけど!?
「んっ…んっ」
 やだ篠宮さん、あたしこれから初めてのお仕事です! 離してぇ!!
「愁介、いい加減に離してくれませんか?」
 呆れた声が後ろからして、篠宮さんの唇から解放された。
 いつの間にか地下の駐車場に着いてたみたい。篁さんは呆れた顔で見てるし。い、今の見られちゃってたんだよね!? いやぁー!!
「ちっ、気が利かねぇな。黙って見てろよ」
「気持ちは分かりますが、これから仕事ですので。島谷さん、行きますよ」
「は、はい!」
 返事だけは何とか出来たけど、篠宮さんが体を離してくれない。
「あ、あの、篠宮さん」
「名前で呼んだら離してやる」
 ええ!? そ、そんな! また壊れちゃったりしたら困ります!
「子供みたいなことを言ってる場合ですか! さっさと離しなさい」
「し、篠宮さん、離して下さい」
 上を向いてお願いしたら、篠宮さんは意地の悪そうな顔をして、あたしを見下ろした。
「だから、名前で呼べって。そうすりゃ、離してやるよ」
「仕方ありませんね、島谷さん、お願いします」
 ええ!? お、お願いしますって……。もう……。
「あの、離して下さい、し、しゅ、しゅーすけさん」
「……50点ってとこだが、まぁいいだろう」
 それでようやく離してもらえた。もしかして、これから名前で呼ばなきゃダメ!?
「行って来い、後でな」
 そう言って、エレベーターの扉を閉めて上に行っちゃった。後でなって……えええ!?
「さぁ、行きますよ、島谷さん」
「は、はい」
 と、とりあえず、今は篠宮さんのことは忘れなきゃ。プリント持ってきてよかった、絶対覚えたこと忘れてる!
 篁さんの傍には黒塗りの車が停まっていて、制服と帽子をかぶったおじさんがドアを開けて待っていた。
「紹介しますね、社用車の運転手の大宮です」
「あ、島谷響子です。よろしくお願いします」
 丁寧にお辞儀をしたら、大宮さんは凄く恐縮したような格好で恭しく頭を下げてきた。垣崎さんといい敷島さんといい大宮さんといい、皆さんあたしなんかにそんなに丁寧に頭を下げなくてもいいんですけど……。
 見るからに高級車の後部座席に篁さんと並んで座って、あたしはついに会社を出てしまった。
 
 

**********

 
 
 都内の道路は、お昼時だからかとても混んでいた。最初の訪問先に行くのに30分も前に会社を出たのは、このためだったんだ。
 車内はとっても静かで、ちょっといたたまれない感じ。どうしよう、さっきの篁さんに訊いてみようか?
 そんなことを思っていたら、篁さんの方から声を掛けられた。
「島谷さん」
「は、はい。なんでしょうか?」
「メイク道具は持って来ていますね?」
「は……い?」
 え、なんでそんなこと訊くの?
 ポカンと口を開けて篁さんを見ていたら、苦笑いで口元を指差された。
「口紅が取れていますよ」
 えええええ!? あっ篠宮さんがキスしたから!!
 慌ててバッグから化粧ポーチを出して、鏡を見た。元々薄いピンク色だから落ちたのがそんなに目立たないけど、でも女の人が見たら絶対に分かっちゃう! 急いでティッシュで唇を拭って、口紅を塗った。
 もう仕事中に篠宮さんに会うのは、極力やめよう。でないと、その度に鏡を見ないといけないもん。
「はぁ……」
 つい溜め息が出ちゃって、慌てて口を押さえた。ああもう……なかなか上手く立ち回れないなぁ。伊藤さんが羨ましい。あの性格は嫌だけど、仕事が速くて要領もいいし。
 ちょっと落ち込んでいたら、また篁さんから声を掛けられた。
「島谷さん」
「は、はい」
 今度はなんでしょうか? 心で身構えて篁さんを見たら、あのいつもの優しそうな微笑みを浮かべて、アタッシュケースから出した書類を読んでいた。
「たか……社長?」
「私と碧とのことは、社内では秘密ですよ」
「……は、はい。言ってません」
「ありがとうございます」
 チラッとあたしを見てフッと笑った。あ、これはちゃんとした笑顔だ。上辺だけの微笑みより、ずっと素敵な笑顔だった。そういえば面接の時も、こんな顔をしてくれてたよね。
「あの……伊藤さんが篁さんの奥さんになりたいって思っているの、もしかして知っているんですか?」
「もちろんです」
 そんな、当たり前のように肯定されると、次に何を言えばいいのよ?
「えと……あの……じゃあ、さっきの伊藤さんの頬についてたスープを取ってあげたのは、その……確信犯ってことですか?」
「…………」
 え、無言!? 気になって篁さんを見てみたら、すんごく満足そうな顔であたしを見ていた。慌てて前を向きました! なんで? なんでそんな顔で見るわけ!?
「それに気付いたのは、あなたが初めてですよ。やはり、あなたを秘書にしたのは正解でしたね」
 ど、ど、どういうこと!? いや、もう何も言うのはやめておこう。
「何故なにもおっしゃらないのです?」
 あたしはもう貝になります!
 無言で前を向いてたら、勝手に話をされてしまった。
「私は望むと望まぬと関わらず、誰からも好意を寄せられますからね。勝手に向けられる好意を私の都合のいいように使っても、それは咎められるべきことではないでしょう」
 うわぁ……篁さんの本性を見てしまった気分。というより、開き直ってない?  さっきは貝になろうって思ったけど、どうしても訊きたいことが出来てしまった。
「あの……それって碧さんは知っているんですか?」
「ええ、もちろんですよ」
「じゃあ、清水さんは……」
 そう言うってことは、清水さんが篁さんを好きだってことも分かっているよね?
 でも、篁さんは答えてくれなかった。
「……社長?」
 隣りを見たら、篁さんは額に手を当てて溜め息をついてた。
「え? あの……」
「清水さんのことまで分かっているんですか。全くあなたという人は……見ていないようでいて実によく見ている。手放したくありませんね、そういう『出来る人』は」
「え? あの……どういうことですか? あたし、クビになっちゃうんですか!?」
 手放すってそういうことよね!?
 そうしたら、篁さんは唖然とあたしを見てから大笑いした。車内に響く篁さんの笑い声。大宮さんが怖ろしげにバックミラーをチラチラ見てる。
「社長?」
「ははははっ、笑ってすみませんでした。しかし……くっくっくっくっ」
 そんなにお腹を抱えて笑うことないじゃない。ちょっとムッとしていたら、やっと笑いを引っ込めてくれて、目に浮かんだ涙を指先で拭った。
「そういう発想は島谷さんならではですね。心配しなくても、あなたのような優秀な人をクビにはしませんよ。私の本性を見抜いたのは、愁介を除けば、あなたが初めてですからね」
「え……だって、碧さんは臨床心理士じゃないですか。だから、碧さんは恋人なんですよね?」
 篠宮さんもそんな感じのことを言ってた。でも、篁さんは首を横に振った。
「近くにいる人間は、なかなか分からないものですよ。あの碧でさえ、最近になって分かったくらいですからね」
「じゃあ、あたしを手放したくないって、どういうことですか?」
 だって、他にないじゃない。
 あたしってば……前は秘書なんて出来ないって思っていたのに、今はもうクビになるのが怖くなってる。この仕事、好きになってきたのかな……。
「あなたは、いずれ愁介に取られてしまいますからね。そういうことですよ」
「あ……はは、それはないですよ」
 あたしは篁さんの言葉に、思わず笑ってしまった。だってそれってつまり、あたしが篠宮さんの秘書になるってことでしょ?
「何故、そう言い切れるんです?」
「だって、レオンさんやマギーさんがいるじゃないですか。あたしがあの人たちの中に入るなんて、あり得ません」
 笑ってそう言ったのに、篁さんはあたしを意味深にじっと見ていた。
「え……社長?」
「他人のことはよく分かるのに、自分のことには本当に疎いですね。愁介が心配するのがよく分かります」
「ど、どういうことですか?」
「……いずれ分かりますよ」
 そう言ったっきり、篁さんは口を閉ざしてしまった。どういうこと? いずれ分かるんだから、その時でいいのかな……。
 その時を想像して、ちょっとだけ怖くなった。
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