Act.7  試練、再び!? ...6

 神経をすり減らしたような気分でラウンジを出たあたしは、伊藤さんと一緒にエレベーターで50階に戻ってきた。さっき覚えたこと、ちゃんと忘れていないかな……。うう、凄く不安。あのプリント、絶対に持って行こう!
 秘書室に戻ると、時間は12時40分になってた。後20分で出なきゃいけないんだ……。はぁー、気が重いよ。
 ロッカーのバッグから化粧ポーチを出して、トイレに行った。歯磨きとお化粧直し、しておかなきゃ。
 鏡の前で歯を磨いていたらその鏡に伊藤さんの顔が映って、ブフッと吹いてしまった。あ、鏡に歯磨き粉が飛んじゃった。
「い、い、伊藤さん」
「あんたね!」
 うわ、凄いご機嫌斜めみたい。やっぱりさっきの夢見心地な伊藤さんは、見間違いだったんだ。何を言われちゃうんだろ……。不安になりながら伊藤さんを見ていたら、「さっさと済ませなさいよ!」と怒られてしまった。
 後ろで伊藤さんに見られながら歯を磨くって、とってもやりにくいんだけど……。でもこのままって訳にもいかないから、手早く済ませて口をゆすいだ。
「えっと……なに?」
「さっき社長と話していた時の私のこと、誰かにしゃべったら承知しないからね!!」
 あれ……見間違いじゃなかったんだ。でも、あんな伊藤さんを話しても、誰も信じてくれないと思う。
「わ、分かった。誰にも言わないよ」
 はっきりとうなずいて言ったら、伊藤さんは安心したようにホッとしてた。それからはいつもの調子でズケズケと言われたけど。今朝のあたしだったら、それだけでビクビクしていたかもしれないけど、思いっ切り言い合っちゃったし、あんな可愛い伊藤さんを見たからか、もう全然怖いと思わなくなった。
「それにしてもあんたって、どういう神経してんのよ?」
「え……どういうって?」
「あの社長が隣りにいるってのに、平然としてて。あんただって社長狙いでしょうが!」
「…………」
 なんのことでしょうか? 言われてる意味が全然分からなくて、まじまじと伊藤さんを見ちゃった。
「なにボケた顔してんのよ!」
「え……だって、社長狙いってどういうこと?」
「なっ……」
 分からないから訊いただけなのに、伊藤さんは絶句してわなわな震えだした。
「まさかあんた……なんのためにこの会社に入ったのよ!?」
「なんのためって……その……成り行きで……」
 そう、考えてみたらあたしって、篠宮さんにここの秘書面接を紹介されて、針のムシロみたいな面接を通っちゃって社長面接して、篁さんから「あなたは素質があるのだから、私や篠宮を信じてみなさい」なんて言われて、しっかり秘書にされちゃって研修に来ていて……。
 本当に流されてここに来ちゃったのよね。篠宮さんや篁さんは、あたしが選んだんだって言うかもしれないけど、でもあたしはそんな風に思ったことはなかった。今だって、篁さんから試練を言い渡されて、それをこなすので精一杯だし。
「伊藤さんの方が、ちゃんと将来を見据えてここに来てるんでしょ? あたし、それは凄いと思う」
 正直にそう言ったら、呆れられてしまった。
「はぁ!? 将来見据えなくて、なんでこんな大企業の社長秘書に就職するのよ!!」
「そ、そうだよね……」
 凄い剣幕。伊藤さん、社長秘書っていうお仕事にプライド持ってるんだ。だから、あんなにあたしに怒っていたんだ。納得すると同時に感心していたら、ビシッと人差し指で差された。
「あんただってそうでしょうが! 違うとは言わせないわよ! 私より美人なくせに、社長夫人の座を狙っていないなんて!!」
「…………は?」
 シャチョウフジンノザってなに?
「とぼけんじゃないわよ!! 日本のトップを争う大企業で男前の独身社長って言ったら、ここの社長以外いないじゃないの!!」
「えっと……そうなの?」
「あんた、私をバカにしてるの!?」
「し、してないよ。だって、そんなのあたし知らなかったし」
「…………なんですって!?」
 えと……そんなに大げさに驚かなくても。あ、じゃあさっきの伊藤さんの夢見心地な顔って……。
「もしかして伊藤さんは、篁さんのことが好きなの?」
「あんたバカ? 好きとか嫌いの問題じゃないでしょ! 社長夫人よ!? 一生バラ色の人生が待ってんのよ!? それで相手が顔が良くて手足が長くて若いなら、言うことないでしょうが!!」
 バラ色の人生って、あたしには全然想像出来ないけど……。社長夫人って色々と大変そう。伊藤さんて、そういうのになりたいんだ。
「え……あの、それじゃ、あたしにきつく当たってたのは……ライバルってそういうこと?」
「他になにがあるってのよ!!」
「え……だって、あたし一言も篁さんの奥さんになりたいなんて、言ってないよ?」
「言わなくたって、あんたみたいな美人でトロいのがこんなところにいたら、そう思うのが当然でしょ!!」
「…………」
 トロいって……そりゃあ、伊藤さんに比べたら作業効率は悪いけど……。
 頭の中でさっきの光景を思い出した。そうしたら、今までの色んなことがピッタリとはまった。
 ……もしかして、篁さんは伊藤さんが社長夫人になりたいってこと、知ってるの? さっき伊藤さんのほっぺたについたスープを取ってたのは、あれはもしかしてワザと?
 碧さんっていう恋人がいるのを社員には内緒って、もしかしてそういうこと?
 篠宮さんが言ってた、清水さんが篁さんを好きなのは篁さんが悪いっていうのは、もしかして……。
 えええええー!?
 そりゃあ、篁さんは優しそうな顔して鬼みたいだけど、まさか……本当に!?
「ちょっとあんた!」
「え!?」
 あ、伊藤さんがいたんだっけ。すっかり忘れていたせいで気を悪くしたのか、とっても怖い顔で睨みつけてきた。怖いとは言ってもそういう顔っていうだけで、あたしはもう伊藤さんが全然平気になっちゃった。
 だって、篁さんの方がよっぽど怖いじゃない。知っていてあんなことを笑顔でするんだから。
「私が目の前で話してるってのに、なに青褪めた顔してんのよ! 失礼な!!」
「え……あ、ごめんなさい」
 どうしよう、言ってあげた方がいいのかな。篁さんには碧さんっていう恋人がいるって。
「あんた、本当に社長を狙ってないの!?」
「狙ってないよ。だって、あたしにはす、好きな人がいるし……」
 つい言っちゃったけど、こういうこと言うのって恥ずかしい。最後は小声になっちゃった。
「ふん、その内社長に乗り換えるつもりなんじゃないの!?」
「そ、それはないよ! 絶対ないから大丈夫、安心して」
 伊藤さんはまだ信じてないみたいで、あたしを睨みつけているけど、あんな怖い人に恋心なんて絶対湧かない。篁さんの極上の笑顔を思い浮かべて、あたしは寒気がした。
 あんな人と恋人でいられる碧さんが、とても偉大に思えた。碧さんは臨床心理士だから、それを知らないはずないよね。っていうか、碧さんだから恋人なのかも。
 じゃあ、清水さんも知ってるのかな……。知ってる……よね? 知らないとしたら、あたしは本当に篁さんが怖くなった。
「あっ……」
 さっきトイレに来た時は12時40分だった。慌てて腕時計を見たら、もう後5分しかない。
「ごめん、あたしもう行かなきゃ! お化粧直しさせて!」
「はぁ!? 私との話はまだ終わってないわよ!!」
 伊藤さんが怒鳴っているけど、そんなことを気にしてる余裕はなかった。篁さんが「13時に出る」って言ったら、絶対に出るよね!? 多分、そういう人だと思う。篠宮さんときっと同類だから。お化粧直していて遅れました、なんて言い訳が通用する人とは思えなかった。
 急いで油取り紙でお鼻と額のテカリを取って、ファンデーションでささっと直して口紅を塗った。こ、こんなもんで大丈夫かな。
「本当にごめんなさい。話はまた後で、ね!」
 まだ何か言ってる伊藤さんを置いて、秘書室に飛び込んだ。壁に掛かった時計を見たら、あと2分。
「島谷さん? そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
 支倉さんはそう言ってくれてるけど、やっぱり篁さんが怖いです。バッグに必要なものを突っ込んで……あ、人事部からもらった名刺、持っていかなきゃ。それから清水さんと支倉さんにご挨拶して、社長室のドアをノックした。あのプリントを持ったの、支倉さんに見られちゃったけど、何も言われなかった。持って行ってもいいんだ。
 部屋の中から声が聞こえて、あたしはドアを開けた。

 
 

 篁さんはいつもの感じで、椅子に座って書類を見ていた。優しそうな微笑みを浮かべて書類を読んでる。でも、この微笑にはもう騙されないんだから!
 あたしがデスクの傍に来ると、篁さんは読んでいた書類をしまって顔を上げた。
「どうやら、覚悟が出来たようですね」
 満足気な様子でそう言って、電話に手を伸ばした。押したボタンを見ていると、内線みたい。
「……私です。ええ……これから出ますよ」
 短い会話で電話を切って、篁さんは足元に置いてあったアタッシュケースを持って立ち上がった。
「では、行きましょうか」
「は、はい」
 うわぁ緊張。同行するのも緊張だけど、篁さんの本性知っちゃったら、一緒にいるのも緊張だわ。清水さんに見送られてエレベーターホールに来た。
 篁さんは正面のエレベーターの扉を指差して、「島谷さんはあれに乗って降りて下さい」なんて言われた。
「え? し、社長はどうするんですか?」
「私はこちらで降りますよ」
 そう言って、さっさと扉の開いたエレベーターに乗っちゃった。
「下で待っていますからね」
 ああ……その笑顔。なにか企んでいるんですね!?
 そうは思っても口に出せるはずもなくて、あたしは大人しく指定されたエレベーターの前で待ってた。
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