Act.7  試練、再び!? ...4

 とはいえ……
 目の前のことに集中しようとしても、午後のことが頭にチラついて全然はかどらない。とりあえず気分転換しようと、席を立った。清水さんに小声で断りを入れて廊下に出る。
「う……んっ」
 両手を組んで頭の上に上げて、ぐっと背伸びをした。はぁー、もう篁さん優しそうな顔して、ホントに鬼だよ。でも、行かないって訳には行かないよね……。
 大きなガラス窓から外が見える。そのガラスに額をくっ付けて下を見た。道路を走ってる車が、おもちゃみたいに見える。周りには高いビルもあるけど、ここが一番高い。
 ちょっとだけ、篠宮さんに会いたいって思っちゃった。あの時、こうしていて後ろから近付かれたんだった。でも、いくらこの上にいるからって勤務中に会うなんてダメだよね。篠宮さんだってお仕事してるんだし。
 それに、会いに行くには篁さんから鍵を借りないといけない。落ち込んで会いたいから鍵を貸して下さい、なんてあたしには言えない。
「はぁー……」
 せっかく、強くなろうって決心したのに……。
 ああもう! 暗くなっちゃダメ。何事もポジティブに、だよ。マギーさんだって教えてくれたじゃない。支倉さんだって、大丈夫って言ってくれたし。
 失敗しないに越したことはないけど、もし何かやっちゃっても篁さんが一緒にいてくれるんだから。これってある意味、ラッキーだよね。
 あたしはお父さんとお母さんの娘なんだから、絶対大丈夫。
 鬼だけど、篁さんに期待されているんだし……あんまり期待されても困るけど、ちょっとだけ篁さんと篠宮さんを信じてみよう。
 ……と、決意を新たにしたのはいいけれど、秘書室にすぐ戻るのも何だか気が引けて、トイレに行った。
 当たり前だけど、トイレはガランとしていた。この50階は社長室とあたしたちの秘書室と会議室、それに社長専用の応接室しかない。女子トイレなんて、あたしと清水さんと伊藤さんしか使わないもんね。あとは清掃員のおばさんくらい。
 真冬だからか、蛇口からは程好い温さのお湯が出る。緊張してたのか、ちょっと冷たくなってた指先に、温いお湯が心地良かった。
「全く忌々しいわね! なんであんたみたいなどん臭いのが、社長と同行なんて許されるわけ!?」
「ひゃあっ!」
 唐突に後ろから声を掛けられて、ビックリした。濡れた手のまま振り向くと、伊藤さんが腕を組んで仁王立ちで立っていた。
「い、伊藤さん……」
「しかも、秘書室の新人で誰よりも一番早く!」
 そんなこと、あたしに言われても……。どうして伊藤さんは、あたしにばかりこういうこと言うの!?
 ムッとして伊藤さんを見ていたら、フンッて鼻で笑われた。篠宮さんに笑われるよりも、ずっとずっと嫌な気分だった。
「言いたいことがあるなら、睨んでないで口に出して言ったら? あんたみたいなウジウジしてる人間は大っ嫌いなのよ! こんな不甲斐ない女なのに、私よりも美人だなんて腹の立つ!」
 酷い……なんでこんなこと言われなきゃいけないの!? あたし、何もしてないのに。
「ここまで言われても反論の一つもないなんて、本当につまんない女ね!」
 だって、なにか言ったらまた嫌味で返して来るじゃない。
「午後の仕事、私に換えなさい」
「え……」
 今、なんて言ったの? この人。せっかく、ポジティブに考えられるようになったのに、どうして今更こんなこと……。
「なにボケた顔してんのよ! あんたみたいのが社長と同行したら、社長の顔に泥を塗るだけでしょ!」
「そ、そんな……」
「社長に言えばいいのよ! 自分じゃ無理だから私に換えてくれって。社長だって、あんたみたいな鈍いの連れてくより、私の方が数段いいでしょ。分かったら、さっさと言ってきなさい」
 伊藤さんは形のいい眉毛を片方だけ上げて、社長室の方を親指で差した。それから個室に入っていく。
 あたしはそこから動けなかった。
 なんで!? どうして伊藤さんからこんなに酷いこと言われなきゃいけないの!? せっかく気持ちを切り換えられたのに!!
 あんな風に言われてこのままなんて……嫌。絶対いや!
 個室から水が流れる音がした。扉を開けて出て来た伊藤さんがあたしを見て、また片方の眉毛を上げた。
「なによ、言ってきたの?」
 あたしは無言で首を振った。伊藤さんはあたしの隣りで手を洗う。
「まさか、そんなことを私に言わせようっての? 自分で言いなさいよ!」
「でも、あたしがたか…社長から言われたお仕事です」
 声がちょっと震えちったのが、情けなかった。足を踏ん張って、伊藤さんを見た。
「だから何よ? 社長に恥をかかせる前に、あんたがあんたのあるか無きかの評価を下げる前に、私が換わってやるって言ってんのよ! 人の好意は素直に受け取るべきなんじゃないの!」
「でも、社長に直接頼まれた仕事だから、あたしがやります! 伊藤さんには絶対に頼みません!」
 ……い、言った。言っちゃった! 今でも足が震えてる。
 伊藤さんは怒ったような顔をして、ちょっと体を引いた。
「な、なによ。今更自分がやろうっての!? 勝手なこと言ってないで、さっさと換わりなさいよ!」
「い、いやです。あたしの仕事です! それに今更って……直接篁さんから言われたのは、あたしですから! だから、あたしがやります!」
 伊藤さんの言い方が、凄く腹が立った。あたし、こんなに怒ったの初めてかもしれない。
 そうしたら伊藤さんは、何故か「我が意を得たり」という顔をした。
「ふん、ようやく本音が出たわね」
「だって、秘書の仕事だから……」
「違うわよ。自分で気付いてないの?」
 え!? なんで、こんな蔑むような目で見られるの? あたし、何も変なこと言ってない。
「社長のことを『篁さん』だなんて。あんた、どういうつもりよ!!」
「え……あっ」
 慌てて手で口を押さえた。でも、つい言っちゃうなんて普通のことなのに、どうしてこんなに憎悪のこもった目で見るの?
「あたし、まだ『社長』って呼ぶのに慣れていなくて、つい言っちゃうの。でも、別に普通のことでしょ?」
「普通? 社長を親しげに呼ぶことが? 冗談じゃないわ!」
「親しげって……苗字を呼んでるだけなのに……」
 恋人になった篠宮さんだって苗字で呼んでるから、あたしには普通だと思う。でも、伊藤さんにとっては普通じゃないんだ。だからって、こんな風に頭ごなしに言うことないと思う。
 そう思っていたら、気持ちが顔に出ちゃったみたい。伊藤さんの目が釣りあがった。綺麗な人が怒ると、こんなに怖い顔になるんだ……。
「あんたなんかに何が分かるのよ! グズのくせにポンと簡単に社長と同行の仕事なんかもらっちゃって! それのどこが親しくないって!? 人をバカにするのもいい加減にして!」
「バカになんてしてないよ! 本当のことだもん。伊藤さんだって、あたしにばっかりそうやって言ってくるの、なんで!?」
「あんたの存在が気に入らないからよ! 大して仕事も出来ないくせにチヤホヤされて」
 ちやほやなんてされてない。むしろ試練ばっかり与えられてると思うんだけど……。
「他の男共だけじゃなくてあの奈良橋くんまで、あんたをかばって」
 それは奈良橋くんの好意だと思う。
「清水さんも支倉さんも愚図なあんたを買ってるし、期待までしてる!」
 それは……期待されても困っちゃうけど、伊藤さんから指摘されることじゃないと思う。
「極めつけは、社長があんたに……あんたなんかに期待していることよ!」
 腰に手を当てて、空いてる方の手であたしを指差して、吐き捨てるように言った。それはあたしも思っていることだけど、他人から……それもこんなに意地悪く言われると、何だかとっても腹が立った。
「あたしだって、期待されても困るもん」
「だったら、そうちゃんと言えばいいでしょ! あんたがグズグズしてるから、社長がどんどん誤解しちゃうんじゃないの!」
「あ、あたしはちゃんと言ってるし……今回も無理だってちゃんと言ったもん。でもたか……社長が聞いてくれないから……」
「ふんっ、どうだか! あんたが連れて行ってくれって頼んだんじゃないの!?」
 勝手に決め付けられて、今度こそ本当に頭にきた。
「あたしは伊藤さんとは違うもん! そんなに行きたいなら、直接社長に言えばいいじゃない!!」
「そんなことしたら、私が図々しい女だって社長に誤解されるでしょ!!」
「…………」
 開いた口が塞がらなかった。事実、あたし口開けたまんま伊藤さんを見ちゃったし。
 誤解って言うか……そのままだと思うけど。
「なに考えてんのよ!?」
「べ、別に……なにも」
「ふん、嫌な女。あんたなんかさっさと失敗して、クビになればいいのよ! あ、私を巻き込むようなドジはしないでよ!!」
 言うだけ言って、伊藤さんはトイレを出て行った。
 な、なんなの!? あの人!! ムカつく。絶対、絶対、クビになんかならないんだから!!

 
 

 秘書室に戻ると、伊藤さんが『さっさと言ってきなさい』って目であたしを見たけど、無視した。あたしって怒ると度胸がつくみたい。
 パソコンに向かってドイツ語の資料を整理している間も、ずっと斜め後ろからチクチクする視線を感じていた。でも、徹底的に無視した。だって、あんな勝手な言い分は理不尽だもん。
 10時30分になって、支倉さんと第四会議室に移動。ここはこの階では一番狭い会議室だけど、それでも10人用の部屋で、あたしと支倉さんの二人きりはかなり広く感じる。
 今日行く5社の社長と秘書さんの名刺を見せてもらい、その会社の事業内容や特徴、業績も教えてもらった。支倉さんは、それを丁寧にまとめてプリントアウトしてくれていた。しかも、社長さんの顔写真付きで。凄く読みやすくて、お手本みたいな内容だった。これ、取っておいて文書作る時の参考にしよう。
 レクチャーの後は訪問先での注意事項。なるべく愛想良く、でも媚びない笑顔を浮かべること。常に笑顔では逆に不審がられるけど、あたしは今回初対面だから特に笑顔を浮かべることは大事、ということだった。
 それから最後に大事なことを教えてもらった。篁さんの前では殊勝な人たちも、篁さんがいなくなると態度を豹変させる人もいるんだって。特に女の子にはセクハラやパワハラをしてくる人もいるみたい。
 そういう時は毅然とした態度でいなきゃいけないって。流されたらそこでアウト。でも腹を立ててもいけない。愛想良く受け答えしながら、さり気なくその話題から逸らしたり、あからさまな時はきっぱり断ったりする。断ったら篁さんに迷惑が掛かるってあたしは思っちゃうけど、そのまま受け入れていることが篁さんだけでなく、会社全体に迷惑を掛けることもあるんだって。
 理屈ではよく分かるけど、それがあたしに出来るとは思えない。やっぱり、あたしには無理だと思っていたら、支倉さんが笑いながら言った。
「今日行く企業のトップの人たちは、そういうことはないよ。だから、島谷さんの最初の同行を今日にしたんだしね。でも、僕は全然心配していないよ。島谷さんなら大丈夫」
 なんで、そんなに言い切れるんですか? あたしだって自分を信じきれていないのに。
 でも、支倉さんは全然心配していなさそうだった。
「本当は僕も一緒に行くべきかと思っていたんだけどね」
 え!? だったら、一緒に行って下さい!!
「でも社長が必要ないっておっしゃったから。社長がそう言うんだから、間違いないよ」
「あの……もしたか、社長が間違っていたら……」
「それは絶対にない。僕のクビを賭けてもいいよ」
 ひぇ! そこまで篁さんを信用しているの!? 本当にあたしで大丈夫なの!?
 青褪めるあたしの前で、支倉さんは左腕にはめた時計を見た。
「昼休みまで後一時間あるね」
「はい?」
 何だろう、さっき篁さんのところでも感じた嫌な予感が、支倉さんの言葉と笑顔から感じた。
「島谷さんなら覚えられるよ。それ、全部暗記していくといいよ」
「え!?」
「もちろん、行く時はこれを持っていかないこと」
 机の上にある、支倉さんからもらったプリントを指差して、当然のことのように言った。
「ええ!? そ、そんなのあたしには無理です!」
「大丈夫。12時まではこの部屋押さえてあるから、心置きなく覚えられるよ。じゃあ、頑張って」
 笑顔でそう言ってポンとあたしの肩を叩いて、支倉さんは会議室を出て行った。
 支倉さんも篁さんと同じくらい鬼でした。なんてオチなの……。
 でも、伊藤さんの前であんなに言い切っちゃったし、やらない訳にいかない……よね。
「うぇ〜ん」
 半分泣きながら、もらったプリントを読み込んで読み込んで、何とか頭に叩き込みました。
 
 

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 お昼の12時になって、奈良橋くんが「清水さんが呼んでるよ」って会議室に来るまで、プリントと睨めっこしていた。覚えられたかどうかは分からないけど、とりあえず今のところは、頭の中から零れ落ちていないみたい。
 13時には会社を出るって篁さんが言ってた。今はもうお腹ペコペコで、ご飯食べていかないと戻ってくるまでに持ちそうに無い。
 ノートとプリントと筆記用具を持って秘書室に戻ると、伊藤さんが物凄く不機嫌そうな顔で待っていた。ああ、また何か言われちゃうかな、と思っていたら、清水さんからとんでもないことを言われた。
「二人で一緒にランチしていらっしゃい」
 ガーン! そんな……今伊藤さんと面と向かったら、覚えたことが全部抜け落ちちゃいそう。
「あの……」
「室長命令よ。あなたたちがギクシャクした関係でいると、都賀山くんや辻村くんに影響が出るわ。仲良くしなさい、とは言わないから、せめてお互いが認め合えるようにしてきなさい。二人とも、これからの秘書室になくてはならない存在なんだから」
 そう言い渡されて、あたしは伊藤さんと一緒に秘書室を追い出された。廊下で恐る恐る伊藤さんを見ると、切れ長の目を更に険悪にして、あたしを睨みつけてる。
「あの……」
「あんたとトイレでやり合った時に、清水さんに聞かれていたのよ。お陰でトイレを我慢しなきゃいけなかったって、言われたわ。だから、あんたと食事して来いって」
「で、でも……」
「私だってあんたと食事なんて、まっぴらご免よ! でも命令なんだからしょうがないでしょ! さっさと行くわよ!!」
 伊藤さんは言うだけ言って、あたしに背を向けて歩いて行っちゃった。慌てて後を追い掛けた。でも、伊藤さんとあのラウンジでお昼ご飯なんて、想像もしていなかった。
 廊下を歩いている時もエレベーターで30階まで降りている時も、頭の中で覚えたことを反芻していたけど、何だか少しずつ零れ落ちているような気がする。だ、大丈夫なのかな、あたし……。
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