Act.7  試練、再び!? ...3

 そうして伊藤さんが来て一週間目の今日、あたしが8時40分に出社すると、もう伊藤さんは来ていた。あたしを見て片方の眉毛をちょっと上げてから、パソコンのモニターに視線を移す。着ていたベージュのスーツについては何も言われなくて、ただ「おはよう」って言われた。
「あ、お、おはよう」
 挨拶だけは、いつもちゃんとしてくれる。でも、他のことではいつも嫌味ばかり言われちゃうから、声を掛けられるとどうしても身構えちゃう。
「あら、おはよう島谷さん」
「あ、おはようございます、清水さん」
 清水さんが笑顔であたしを手招したから、バッグを自分のデスクに置いて清水さんの元に行った。
「何でしょうか?」
「明日は国際管理部で、ドイツ側のチームとテレビ会議があるでしょう」
「はい。昨日その打ち合わせをしましたけど」
 インターネットを使ったテレビ会議。明日であたしには2回目の大仕事。先月は予定通り終わったとはいえ、色々もたついたところがあったから、今度はもっとスムーズに出来るようにしなきゃ。打ち合わせでどんな内容の会議をするかは大体分かったから、昨日の内に使いそうなドイツ語は資料として集めておいた。今日はその整理をするつもり。
 清水さんはあたしの顔をじっと見ていて、それからニコッと笑った。
「どうやら、自分のやるべきことは分かっているようね。頑張りなさい」
「え……あのっ、もしかしてまた顔に出てました?」
 一応、アパートで時間のある時は鏡の前で表情の練習はしているけど、まだまだ全然ダメ。
 そうしたら、清水さんは笑いながら手をひらひらさせた。
「今のは違うわよ。島谷さんの目を見て、そう思ったの。不安な気持ちや気掛かりなことが顔に出てしまうのはよくないけれど、気負いや決意が出るのは全然構わないのよ。むしろ、その方が他人に与える印象はよくなるわ。そういう気持ちをいつも忘れないでいなさい」
「……はい、ありがとうございます」
 清水さんにそう言われたことがすごく嬉しくて、あたしは深く頭を下げた。
「島谷さんにお礼を言われることなんてないわ。あなたが自分でそうしたんだもの、もっと自信を持っていいのよ。でも、どういたしまして」
 ふわっと笑ってもらえて心が軽くなった。こんな一言でこんなに気持ちが変わっちゃうんだから、なんだか不思議。
 席に戻ると奈良橋くんと辻村くんが出社してきた。
「おはよう、島谷。嬉しそうだな、何かあったのか?」
「あ、おはよう奈良橋くん。うん、ちょっと」
 こういうことは顔に出るのも嫌じゃない。辻村くんはあたしを見て、何故か顔を赤くしてる。なんでかな?
「辻村くん、おはよう。どうしたの? 顔が真っ赤」
「う、お、おはようございます。べ、別に何でも」
 うーん、いつも通りオドオドしてる。伊藤さんを前にした時のあたしも、こんな感じなのかな。でも、辻村くんの性格なら仕方ないって思う。あたしも一緒だから、こういう人が自分一人じゃないのは、ちょっと心強い。
 奈良橋くんは悠然と、辻村くんはそそくさって感じで自分のデスクについた。9時になって支倉さんが来て、今日はこの6人でお仕事。
 パソコンを開いた時、斜め後ろの方からチクチクする視線を感じた。伊藤さんだ。なんだろう、また何か言われちゃうのかな……。急に、不安になってきた。でも、視線を感じたのはその時だけで、明日の会議のためにドイツ語の資料を整理し始めたら、それは感じなくなった。

 
 

 ふと時計を見たら、9時30分。ミルクティが飲みたくなって、秘書室奥のキッチンへと席を立った。ついでだし、コーヒーも作っちゃおう。別に絶対に9時45分に作る必要はないんだから。
 忘れるのが怖いから、先に冷蔵庫からミルクティのペットボトルを出しておいて、コーヒー作りを始めた。
「あんたってお手軽ね。あんな程度で浮かれるなんて」
「わっ!」
 び、び、ビックリした。急に後ろから声がするんだもん。サーバーを落っことしちゃうところだった。
 この声は絶対に伊藤さんだ。恐る恐る振り向いてみると、やっぱりご機嫌斜めな顔で腕を組んでパーテーションの前で立っていた。
「あ、い、伊藤さん」
「もっとライバルらしくしなさいって言ったでしょ。あんな程度に褒められたくらいで浮かれないでよ。あんなの当然じゃないの」
「…………」
 あたしにとっては当然じゃないんです。……って、言えたのは心の中でだけ。
「黙ってないで、なんとか言いなさいよ」
「えと……お、お仕事はいいんですか?」
「あんたと一緒にしないで。室長から頼まれた会議のレジュメはもう出来たわ。言っとくけど、社長が出席する会議よ」
「す、凄いんですね」
 どう返したらいいのか分からなくて、とりあえずそう言ったら、今度はキッと睨まれてしまった。美人さんで切れ長の目だから、睨まれると結構怖い。
「なによその返し方。私をバカにしてるの?」
「し、し、してないです」
 一言一言が本当に怖くて、あたしさっきから固まっちゃって、コーヒーも作れてない。
「ふん、全く骨のない女ね、あんたって。同期の私に敬語なんか使っちゃって、なにビビッてんのよ。あの辻村ってのは、あんた以上に挙動不審だし、都賀山ってのはいちいちイチャモン付けて来るし。まともなのは奈良橋くんだけじゃないの!」
「あの……辻村くんも頑張ってるけど……」
「頑張ってあの程度でしょ。日本でのトップを争う大企業の社長秘書になったっていうのに、こんな程度の連中しかいないなんて。ああ、もうやだやだ」
 伊藤さんは本当に嫌そうに首を振って、出て行った。そんなに嫌なら、来なきゃいいのに……。そう思ってる自分に気が付いて、ちょっと自己嫌悪。頑張るって決めたんだから、負けないようにしなきゃ。
 コーヒーを作っていたら、支倉さんが顔を出した。
「あ、おはようございます、支倉さん」
「おはよう、島谷さん。社長からご指名だよ」
「え!? あ、あたしですか!? は、はい!」
 ひぇ〜、朝からなに!?
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
「あ、そうですね。はい、お、落ち着いて行って来ます」
「はははっ、島谷さんなら問題ない。気持ちをしっかりね」
 優しい笑顔を浮かべて支倉さんは席に戻っていく。清水さんも支倉さんも、いい上司でよかった。
 コーヒーはもう出来上がるのを待つだけの状態で、あたしは社長室への扉をノックした。中から「どうぞ」の声。
「失礼します」
 部屋に入ると、篁さんはデスクに直接腰を下ろして何かの書類を読んでいた。
 秘書室と同じくらいの広さがある社長室。デスクが2つあるのは、篁さんが仕事をしやすいように仕事別に分けているからなんだって。
「社長、なにかご用でしょうか?」
 ドキドキしつつ傍に行って訊いてみると、篁さんはいつもの優しそうな笑顔を向けた。でも、もうだまされないんだもん。優しそうに見えて鬼なんだから、心して向かわないと!!
 ……って思っていたら、篁さんはちょっと絶句したみたいにあたしを見てから、クスクス笑い出した。
「あの……社長?」
「笑ってすみません。しかし、そんなに気負わなくても、無理難題を押し付けたりはしませんよ。島谷さんはよくやっていますからね」
「そ、そうでしょうか?」
 でも、篁さんの前では下を向いちゃいけない、とか、結構無理難題を押し付けられてたような気がする。
「新しく入った伊藤さんは、島谷さんの目から見て如何です?」
「え……」
 まさか伊藤さんのことを訊かれるとは思わなかったから、とっさに何も言えなかった。
「島谷さんとは唯一の同性で同期の秘書ですからね、色々感じることもあるでしょう」
「え……あの、き、綺麗な人だなって、思います」
 うわぁ、なんか伊藤さんの気持ちが分かっちゃった。こんな頭の悪そうなことしか言えない自分が不甲斐なくて、自然に顔が下に向いちゃう。でも、篁さんの手が顎の下に入って、ぐいっと上向かされてしまった。
「私の前ではうつむくのは禁止ですよ」
「う……は、はい。お、覚えてます」
「では、それを実践しなさい。それで、他にはなにもありませんでしたか?」
 もしかして、伊藤さんに色々言われちゃってること、篁さんは知ってるのかな。そう思えるような訊き方だった。
「特にはなにも……何もありませんでした」
 ちょっと迷って、でも言ったのはそれだけ。本当のことを言うのは、なんだか密告しているみたいで嫌だった。
「そうですか。では」
 うえ? なに、この不吉な予感。篁さんの顔が極上の笑顔に!
「今日の私のスケジュールは把握していますね?」
「は、は、はい」
 うわぁ、明日の会議の資料を整理する前に確認しておいてよかった。
 確か……10時30分から午前中は各部署の部長が一堂に会する会議に出席、お昼は会社で摂って、13時30分から取引先の会社5社を順次訪問、17時には戻る予定で、その後販売部からの要請でマーケティング会議に出席、だったはず。
 これをそのまんま篁さんに言ったら、満足そうに頷かれた。スケジュールはこれだけだけど、その合間には書類に目を通して決裁しなきゃならないし、やっぱり社長って大変なお仕事よね。篠宮さんのお仕事も、こんな感じなのかな……。
 なんて思っていたら、とんでもないことが篁さんの口から飛び出した。
「その取引先への訪問ですが、今日は島谷さんに同行をお願いします」
「は!? あっ……いえ! その、あ、あたしがですか?」
 咄嗟に訊き返しちゃって慌てて言い直した。け ど、本当にあたしが!? いつもは支倉さんが一緒に行ってるのに!
「島谷さんは、もう外での仕事を覚えてもいい頃ですよ。本来は4月以降の予定でしたが、島谷さんはよくやっていますからね。もう社内での仕事の殆どは覚えたでしょう」
「そ、そ、そんな滅相もありません。まだ覚えてないことはたくさんありますし、あたしにはまだ無理です!」
 そんな大仕事があたしに回ってくるなんて、絶対なにかの間違いよ! あたしじゃ絶対失敗しちゃう! 4月からの予定だったんなら、そうしてくれればいいのに!
 必死に目でそう訴えたのに、篁さんは笑顔を崩さないままで言った。
「無理ということはありませんよ。残念ですが、あなたの意見は聞けません。詳しいことは支倉くんから聞いて下さい。13時には社を出ますので、それまでに準備を済ませておいて下さい」
 うう……その笑顔が鬼に見えます、篁さん。
 呆然としたままお辞儀して社長室を出て、自分の席に戻った。出てくるのは溜め息ばっかり。どうしよう、篁さんと同行なんて……。
 あ、ミルクティ。キッチンに出しっ放しだった。席を立って取りに行ったら、ボトルの外側に水滴がいっぱい付いてた。社内は暖房で程好く暖かいから、もう結構温んでるかも。しょうがないけど。
 その場でキャップを開けて一口飲んだ。……一口だけじゃ足りない。ゴックゴック音を立てて半分くらい、一気飲みした。ヤケ酒じゃなくてヤケミルクティね。こんなの、全然笑えない。
 残っていた分も一気飲みして、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。
「島谷さん」
「は、はい!」
 一人だと思って、ヤケクソでゴミ箱の底に叩きつけるようにボトルを捨てたら、声を掛けられてビックリした。こんなところを伊藤さんに見られたら、また何を言われるか! これからは気を付けなくちゃ。この声は支倉さんだったけど。
 振り向いて顔を見たら、分かってしまった。
「支倉さん、あたしを呼びに来た時はもう知ってたんですね」
「そうなんだ……黙っていて悪かったね。本当のことを言ったら、島谷さんは却って恐縮するだろうから、社長の口から言ってもらった方がいいと思って」
 眼鏡を掛けた支倉さんの顔が、本当に申し訳なさそうに見えた。でもあたしは自分を止めることが出来なかった。
「でも、あたしが社長と同行なんて無理です! 社内のこともまだまだなのに、いきなり今日社長と同行なんて!」
「急に言われて逃げたい気持ちも分かるが、ここで踏ん張ればもう一段階上にいける。それは悪いことじゃないし、むしろ島谷さんにとっては飛躍的に成長できるチャンスだよ」
「でも……あたしにはまだ」
「これは社長は言わなかっただろうけどね」
 支倉さんの声のトーンがちょっと低くなった。それが怒っているように聞こえて、ドキッとした。
「島谷さんが、もし訪問先で失敗をしたら恥をかくのは社長だ。そういう秘書を連れてくる判断を、社長自ら下したってことだからね」
「…………」
 なにそれ。失敗するのはわざとじゃないのに、まるであたしが篁さんの顔に泥を塗るように聞こえる。別に、あたしが「連れて行って下さい」って言った訳じゃないのに!
「だから、あの社長がそんな結果になるような島谷さんを、連れて行くはずがないだろう?」
「え……」
 なんだか、あたしが考えたことと違うことを言ってる?
「社長はね、失敗を恐れてはいないけど、あまり失敗をする人ではないんだ。僕ら凡人から見たら不思議なことだけどね、必ずいい結果を出す人なんだよ。自分のことに限らず僕ら社員に関してもね。今の島谷さんなら、連れて行っても問題はない。そう判断したから同行させることにしたんだよ」
「でも、あたしはまだ研修の身ですし、却って社長に迷惑を掛けてしまいます」
「そうかな? 僕はそうは思わない。島谷さんは深刻に考え過ぎるんだよ。同行と言ってもそんなに難しいことはない。社長の隣りで相手の話を聞き、必要があればメモを取る。他に必要な秘書の仕事はスケジュールの管理だけ。特に、今日の訪問先は難しい相手ではないから、初めての島谷さんにとってはちょうどいい勉強の場になるよ」
「…………」
 あたしは何も言えなかった。そんなに気を遣って考えてくれてたんだ。それなのに、あたしはあれこれ理由を付けて断ろうとして、支倉さんや篁さんの好意を台無しにしようとしてた。自分が恥ずかしい。
「あの……すみません。あたし、なにも分かっていなくて」
 すごくいたたまれない気持ちになった。でも、支倉さんは笑いながら言ってくれた。
「そんなに落ち込むことはないよ。いきなり言われれば誰だって驚くし、責任の重さに耐えられないと思う。でも、社長も清水さんも僕も、島谷さんのことは買っているからね。今日行けば、島谷さんは絶対に一回り成長すると思うよ。騙されたと思って、社長に同行するといい。訪問先の情報は後で僕が教えるから」
「は、はい」
「それじゃあ、10時30分になったら第四会議室で勉強会をしよう。それまでは、片付けなきゃいけない仕事をやっておいて」
「はい、よろしくお願いします」
 深々とお辞儀をして、キッチンを出て行く支倉さんを見送る。気が楽になった訳じゃないけど、こんなに色々考えてくれている支倉さんには、八つ当たりして悪いことしちゃった。今日は頑張らなきゃ……。
 もうこれで最後、と思って盛大な溜め息をついて、自分の席に戻った。
 明日のためにやりたいドイツ語の資料整理は、10時30分までに終わらせなきゃ。あと40分……。
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