Act.5  熱情の抱擁 ...11

「ご飯は頂いて帰りますから」
「ふん、まぁ俺がいる時はいつでも会えるしな」
「……は?」
 どういうことだろう? しばし考えて、でも答えは出なかった。
「えと、どういうことですか?」
「お前の職場はこの下だろうが」
 あ、そういうこと。…… ハッ! ということはまさか!?
「俺がここにいる時は、いつでも呼び出せるからな」
 な、なんでそんなに嬉しそうなんですか!?
 言っても聞いてくれなさそうだから、黙ってたけど。
 でもこの、篠宮さんの膝と腕の中で抱き締められている状況は、何とかしたいなぁと思う。
「あの、篠宮さんパジャマで寒くないですか?」
「ああ、全く問題ねぇ」
「でも、そろそろベッドに戻った方が、体が休まるのでは……」
「俺としてはこっちの方が休まる」
 そう言って、あたしの肩をギュッと引き寄せて、首元に顔を寄せてきた。
 またえっちなことされるかと思ったけど、今度は何もされなかった。ただ抱き寄せられただけ。でも、腕に力がこもっているような気がする。背中を通して、篠宮さんの心臓の音が聞こえた。規則正しく打つ鼓動が、あたしの気持ちも落ち着けてくれる。
 なんだろう、この感じ。ちょっと考えて、篠宮さんが顔を寄せたのと反対側の手で、篠宮さんの頭を撫でた。
「…………響子」
「ひゃ! ご、ごめんなさい!」
 慌てて手を放した。怒られはしなかったけど、やっぱりというか、微妙な空気が流れた。
「お前、どういうつもりで頭を撫でた」
「ご、ごめんなさい。あの……何となく……なんです」
 あたしにだって理由が分からないもの。ただ、何となくそうしてあげたいって、思ったんだもん。
 さすがに「してあげたいと思った」なんて言えなかったけど、篠宮さんはふっと息をついた。
「す、すみません」
「無闇に謝るなと、前に言ったぞ」
「お、覚えてます」
「別に怒ったんじゃねぇ。不思議なことに、俺も不快な気分じゃなかった。頭撫でられるってのは、懐かしい気分になるな」
 あ、それは分かる。童心に返るっていう感じ。篠宮さんみたいな大人の男の人でも、そう感じるんだ。
 もう一度、やってあげた方がいいかな……と思って手を上げたら、今度は不機嫌そうに言われた。
「だからって、そう何度もやるなよ」
「う……や、やりません」
 慌てて手を引っ込めたら、篠宮さんの両手がブラウスの襟元に来て、プチプチとボタンを外し始めた。
「ちょっ!? なにをしてるんですか!? やっ」
 胸、胸、直接触られてる。
「もう一度やろうとした罰だ」
 うわぁん、墓穴堀りってこういうこと言うの!? やだ、変な気分になっちゃう。
「お元気そうですね、愁介様」
 唐突に背後からクリスさんの声がした。声にトゲトゲしたものを感じたけど、気のせいよね? うん。
 篠宮さんはあかさまらに舌打ちして、あたしの胸元から手を抜いてくれた。ホッとして急いでボタンを留めてると、篠宮さんが立ち上がった。
「クリス、入る時はノックくらいしろ」
「しましたけど返事がありませんでしたので」
「聞こえなかったぞ」
「響子様に夢中になっていらっしゃったのでは?」
 おそるおそる後ろを見てみると、しれっとした顔で言うクリスさんと、憮然とした顔の篠宮さんがいた。
「明日の執務に差し障りますから、大人しく寝ていて下さい。それとも、ベッドに縛り付けてさしあげましょうか?」
「俺にマゾの気はねぇよ」
「承知しています。わざと言ったに決まっているでしょう」
 溜め息をついて呆れたように首を振ったクリスさんに、篠宮さんがわなわな震えているのが分かった。ひぇ〜、お願いですからこれ以上怒らせないで下さい。
「夕食が出来ました。食べたら今度は大人しく寝てください。響子様はお食事の後で、自宅までお送りします」
「あ、ありがとうございます」
 
 

**********

 
 
 それから、クリスさんお手製の夕食を頂いた。篠宮さんは、もう完全にお粥しか食べさせてもらえなくて、ずっと不機嫌だった。
 あたしのおかずは今度は洋食中心で、温野菜のサラダとかお魚のムニエルとか、色んなお料理が出て来た。お粥しか食べさせてもらえない篠宮さんの前で、こんなにたくさんおかずを食べるのは、ちょっと気が引けるけど、味はやっぱり最高だった。
 夕食の後は熱がすっかり引いていて、篠宮さんはしきりに「寝る必要はねぇ」とか言ってた。でも「嫌ならベッドに縛り付けます」というクリスさんの一言で黙っちゃった。
 
 そんな中で、クリスさんに車で送ってもらうことになったあたし。
 クリスさんがコートを出して来てくれて、マギーさんが洗濯したあたしの勝負下着も、きちっと袋に入れて返してくれた。いくらマギーさんが洗濯してくれたと言っても、渡されるのが男のクリスさんというのは、やっぱりちょっと恥ずかしい。
 もう後は帰るだけ、というところで篠宮さんが「玄関まで送る」、というのを渋々認めたクリスさんと三人で、ホテルのロビーみたいなエレベーターの前まで来た。
 篠宮さんはパジャマ姿のまま。着替えたかったみたいだけど、クリスさんが頑として許さなくて……今だけは上司と部下の立場が逆転したみたいだった。
 あの篠宮さんがクリスさんの一言一言に、渋々ながらも従っているのが、何だかおかしかった。
 ふと思い付いて、あたしは傍に立つ篠宮さんを見上げた。
「なんだ?」
 見下ろされてドキッとした。さっきクリスさんに言われたことを、思い切ってやってみようかなって思ったの、見透かされちゃったんじゃないか……って。
 言うと決めた時から心臓がバクバク跳ねてたんだけど、篠宮さんがどんな顔をするのか見てみたい好奇心もいっぱいあった。
「えと……ちゃんと体休めて、明日からまたお仕事頑張って下さいね、愁介さん」
 い、言ったー! 声が震えたけど、何とか言い切った! でも顔はかなり引きつってたと思う!
 篠宮さんは一瞬目を見開いた。それからバシッと音がするくらいの勢いで右手で口元を押さえて、あたしから顔を背ける。お、怒っちゃったかな。言わなきゃよかったかも。
「ご、ごめんなさ……」
 急に顔を両手で押さえ込まれて、「い」という言葉は言えなかった。
 キス、キスされてる! しかも、さっきなんかとは比べ物にならないくらい、激しいんですけど!!
 目の前ドアップの篠宮さんの目が怖い。ギュッと瞼を閉じちゃった。密着された篠宮さんの体を必死に押し退けようとしたけど、全く歯が立たない。舌……篠宮さんの舌が口の中をうごめいてる感じ。
「ん……ふっ…んぅ」
 これあたしの声!? あ、足……震えちゃって支えてられない。思わず篠宮さんのパジャマにしがみついた。でも全然ダメ。
 カクッと膝が崩れそうになった時、キスされたまま壁に背中を押し付けられて、更に深くキスされた。
 …っていうか、これってキスなの!? 人の舌ってこんな動きするの!? やだ、気持ちよくなってきちゃった。
「愁介様」
 どこか遠くでクリスさんの声が聞こえて、やっと唇が解放された。口の周りが凄い濡れてる。
 あたしの足はもうガクガクで、床にペタンと座っちゃったところを、ふわっと体が浮いた。ぼやけた視界に、下から見上げたような感じの篠宮さんの顔が見えた。
 意識は朦朧としてるんだけど、耳はよく聞こえてて、クリスさんの呆れたような声がする。
「全く、なにをやってるんですか」
「ふん、どうせけしかけたのはお前だろう」
「そうですが……まさか愁介様がここまで壊れるとは、想像もしていませんでした」
 ……ホントにそうです。
「俺も意外だった。響子に名前呼ばれただけで、頭ん中がブっ飛んだぞ」
 そ、そうだったんですか! ……もう名前で呼ぶのはよそう。
「愁介様は、エレベーターの中までですよ。降りたらすぐに戻って下さい」
「分かってる。お前こそ、響子をしっかり送れ」
 フッと浮遊感がなくなって、あたしの体はクリスさんの腕の中に移動した。
「じゃな、響子」
 篠宮さんが手を上げたから、あたしも自然に手の平を見せてヒラヒラさせた。
 それから、車の助手席に座らせてくれたクリスさんは、突然あたしの前で土下座した。
「申し訳ございません! 響子様!」
「え!? ク、クリスさん!? やだ、立って下さい! 服、汚れちゃいます!」
 突飛な行動のお陰でボーっとしていた頭の中が、すっかり晴れた。
「私があのように言ってしまったために、とんでもないことに」
「………… でも、やっちゃったのはあたしですし。もう大丈夫ですから。あの、もう立って下さい、お願いですから」
 考えてみたら、あんな凄いキスをクリスさんに見られちゃってたのよね。うわっ、今頃恥かしくなってきちゃった。
「響子様」
「は、はい」
「これに懲りて、二度と愁介様を名前で呼ぶのはやめよう、などと思わないで下さい」
 な、なんで分かっちゃったんですか!? クリスさん目が怖いくらいに真剣です。
「今後は愁介様も自重するでしょう。先程のは、ふい打ちだったのであのように壊れてしまいましたが、本来はあの程度でどうにかなるような人ではないのです」
 お願いします、と深々と頭を下げられて、あたしは困ってしまった。
「あの、好奇心にかられて言ってしまったのはあたしですし、その……もうやめようと思ったのは本当ですけど……でも、心臓は凄くドキドキしてましたし、す、少しずつ慣れようと思います、から」
 な、なに言ってんの! あたしぃ!
 クリスさんはホッとした顔で「ありがとうございます」と言って、やっと立ち上がってくれた。

 
 

 アパートに帰る間中、あたしの頭の中は、今日起こったことでいっぱいだった。
 会社の最上階だと思ってたあたしたちの職場より、更に上に秘密のフロアがあったり。
 篠宮さんがエインズワースっていう世界一?の凄い組織の総帥だとか、その篠宮さんにバージンあげちゃったとか……。うわぁ、あたしってば凄い人としちゃったんだ。
 さっきのキスも凄かったし。
 なんかもう、一生分の経験を一日でしちゃったって感じ。
 でも、これで篠宮さんとあたしって、恋人同士に……しかも大人の関係になっちゃったんだ!
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