Act.5  熱情の抱擁 ...2

 クリスさんが運転する車で来たのは、もう見慣れた場所だった。車窓からそのビルを見たあたしは、クリスさんに訊かずにはいられなかった。
「あの……クリスさん。もしかして篁さんの会社に向かってます?」
「ええ、愁介様のご自宅はあのビルです」
 サラッと答えが帰って来て、あたしはポカンと口を開けた。
「え……でも、会社にそういう階は」
 なかったはず。
 クリスさんはハンドルを操作しながら、相槌をうった。
「社員が使える階には勿論ありませんよ」
 そう返されて、頭の中で会社のフロアを思い出してみたけど、どの階もウチの部署が入っているはず。
「あの……どういうことですか?」
「あのビルは55階あります」
「ごじゅうご……」
 あたしたち秘書室と社長室があるのが50階で、それ以上はないと思ってた。だって、エレベーターの表示だって50までしかないし、ロビーやエレベーター内にある各階の案内図にだって、51階以上はなかった。
 どういうこと?
 車は当然のように、会社の地下駐車場に入って行く。仕事じゃないのに会社に入るって、なんか変な感じ。
 クリスさんが停めたのは入り口からずっと奥の方で、他の駐車スペースとは区別された場所だった。スーパーの駐車場とかで見る、遮断機のついた駐車券の発行機械みたいなものについてるテンキーで、いくつかの番号を押すと遮断機が上がる。発券はしなかったけど。
 地下駐車場の4分の1くらいのスペースがあるそこに、篁さんのプリウスが停めてあった。
「あの……ここは」
「社長である篁さん以外は、愁介様と愁介様のスタッフ専用の駐車スペースです」
「…………」
 篠宮さんのスタッフ? クリスさんのことかな……。首を傾げていると、ビルの入り口のような場所で降ろされた。
 エンジンを掛けたままで車を降りたクリスさんは、助手席側に回り込んでドアを開けてくれる。こんな誰にも見られないところでも、エスコートしてくれるの? もしかして、篠宮さんにも同じ様なことをしているのかな……。
 あたしが降りたすぐ傍で、クリスさんの運転する篠宮さんの車が、スムーズに駐車スペースに収まった。
 クリスさんが車を降りて来ると、上着の内ポケットからカードみたいなものを取り出して、こちらに来る。
「どうぞ、こちらへ」
 促された場所は、自動ドアのすぐ前。壁にカードリーダーが備えてあって、クリスさんはそこに持っていたカードを縦に滑らせてから、素早くテンキーを押した。すぐに目の前の自動ドアが開いて、あたしはクリスさんに腕を引かれて中に入った。
 廊下のような通路の突き当たりにエレベーターがある。そこでクリスさんは上行きのボタンを押す。
 すぐに扉が開いて、二人でそれに乗った。隣りに立つ、篠宮さんよりも更に背が高いクリスさんを見上げて訊いてみる。
「あの……あたしここに来てまだ日が浅いですけど、このこと初めて知りました」
「でしょうね。社員でここの存在を知っているのは、篁さんだけですから」
「え……それなのに、あたしが知ってもいいんですか!?」
「響子様は特別ですから」
 と、特別!? な、なんであたしが!?
 口を開けてクリスさんを見上げていたら、クスッと笑われた。
「愁介様の大事な方ですからね。私たちにとっては特別です」
「…………」
 なんて返せばいいのか思案している間に、クリスさんが先に進めてしまった。
「このビルのエレベーターは、全て55階まで行けます」
「え、でも……」
 あたしは会社に関する記憶を、総動員して思い返してみたけど、どのエレベーターも50階までしかなかった。
「50階までしかボタンはありませんよね……?」
 クリスさんは何でもないことのように、あっさりとうなづいた。
「ええ、専用のキーを使ってある特別な操作をしないと、そのパネルは出てきません。ここの社員でそれを持っているのは、篁さんだけです。このエレベーターだけは駐車場から直行出来るように、51階までは壁の中を走ってますが」
「…………訊いてもいいですか? なんでそんなこと……」
 なんだか途方もない話で、本当にあたしなんかがそんなところに行っていいのか、心配になってしまった。
「愁介様の仕事は、ほぼ24時間休むことが出来ません。世界に時差がある限り、常にどこかの国が就業しているからです。そのため、オフィスと住居が同じ場所にあると便利なんですよ。休んでいるところを呼び出されても、すぐに対応出来ますからね。それでここを選ばれたのです」
「あの……篠宮さんて、どういうお仕事してるんですか? そんな、一日中休めないなんて……」
「それは後ほどお話します。着きました」
 え? と思った瞬間に扉が開いて……唖然としました。
 まるで篠宮さんのホテルのロビーみたい。会社の内装とは全然違う! クリスさんが一緒じゃなかったら、絶対場所を間違えたと思って、「閉」のボタンを押して1階に降りてるよ!
 クリスさんに促されて、唖然呆然のあたしは何も考えられずに、それに従った。
 凄い! 床はフカフカの絨毯だし、フロントみたいなカウンターがある。こんなところが会社の中にあるなんて、もし誰かに言っても絶対信じてもらえないよ!!
 口を開けてキョロキョロ周りを見ていたら、クリスさんがカウンターの方へと歩いていく。あたしは何となくそれについていった。
 カウンターの中にいたのは、黒っぽいスーツを着た外国の男の人。クリスさんはその人に親しげに声を掛けた。
 え!? クリスさん英語が出来るようになったの!?
 ちょっと失礼な感じでビックリしていたら、どう見ても白人のその男の人が話したのは、綺麗な日本語だった。視線があたしに向けられてるのは、錯覚じゃ、ないよね……なんでぇ!?
「クリストファー、そちらが島谷響子様ですか」
 ひぇぇ! なんであたしの名前!?
「ええ、こちらが島谷響子様ですよ。しかし、何故あなたがここにいるんです? レオン」
 目の前にある後ろ姿のクリスさんが、ちょっと首を捻るのが分かった。レオンという人の顔は、あたしからは丸見えで、そう訊かれた途端、口元がひきつっていた。
「あなたのため以外にありますか! 他のスタッフは日本語が話せないのですから、仕方ないでしょう」
「うぐ……す、すみません」
「あなたが戻って来たなら、私は仕事に戻りますよ。愁介様はマギーが見ています」
 そう言われて、クリスさんの肩が落ちた。
「重ね重ねご迷惑を……」
 はあっと、あたしにも聞こえる溜め息。でもレオンさんは、諦めたようなそれでいてどこか優しそうな苦笑を浮かべた。
「あなたの英語アレルギーは、今に始まったことではないですからね。無理にとは言いませんが、他のスタッフと、せめて簡単な意思の疎通くらいは出来るようにしないと、この先苦労しますよ」
「はい……」
 レオンさんはクリスさんの肩をポンと叩いて、あたしには丁寧に頭を下げて、奥のドアに引っ込んでしまった。
「え、と……クリスさん?」
 気後れしながらクリスさんに声を掛けると、クルッとあたしの方を向いて、深々と頭を下げた。
「え!? な、なんですか? クリスさん」
「響子様に見苦しいところを、お見せしてしまいまして……」
「そ、そんなこと! あたし全然そんな風に思ってませんから!」
「ありがとうございます。響子様はお優しい」
 ホッと胸を撫で下ろすクリスさんが、何だか気の毒のような気がして、あたしは話題を変えた。
「あ、あの、今の男の人は……」
「レオン・インベルグと申しまして、愁介様の秘書です。スウェーデン人ですよ」
 ほえー、北欧の人って初めて見た。透き通るような白い肌で銀髪……あれがプラチナブロンドっていうのかな? 鮮やかな蒼い瞳も宝石みたいだった。
「篠宮さんの秘書さんて、国際的なんですね。あ、篠宮グループって海外で有名なんですか?」
「篁さんから聞いたんですね?」
「はい。ビックリしました。凄い人なんですね、篠宮さんて」
 そんな人とデートするのが、こんな庶民代表みたいなあたしでごめんなさい、だけど……。
「あれは篠宮のスタッフではありませんよ」
「え?」
「エインズワースのスタッフです」
「え、いんず、わーす?」
 何かの会社の名前かな? もしかして秘書を派遣している会社とか?
 そう訊いたら、クリスさんに苦笑された。
「どうぞ、詳しいお話は中で致します」
 そう言って、恭しくあたしの右手を取って、クリスさんはロビーの奥へと連れて行ってくれた。
 会社の上にこんな豪華ホテルみたいなところがあるなんて、夢でも見ているみたい。革張りのソファまで置いてある。そこまで来るとクリスさんがコートを脱がせてくれて、どこかに置きに行った。あたしはソファに座って、口を開けて周囲を見渡してた。
 すごい! 絶対に高級ホテルにしか見えないよ!! 夢見てるみたい……。
 少ししてクリスさんが戻ってくると、あたしの隣に座って、色々と説明をしてくれた。
「51階から上は、全てエインズワースの本部になっています」
「はあ」
「51階はデータ管理室。ここ52階が愁介様の居住区となっています」
「はい!? ここのフロア全部ですか!?」
「ええ。53階と54階に愁介様の執務室があり、55階……最上階にレオンや私を始めとしたスタッフの居住区となっています」
「…………」
 あたしはこれ以上聞くのが怖くなった。
 篠宮さんて、篠宮グループの会長さんじゃないの!?
「エインズワースというのは、イギリスに本拠地を置くヨーロッパ全土……世界のほぼ半分を掌握する財閥です。愁介様は現在、エインズワース財閥の総帥でおられます」
「…………」
 耳がそれ以上の話を拒否しそうだった。頭が真っ白になりそう。
 篠宮さんが、篠宮グループの会長さんっていうだけでガタガタになっちゃったあたしが、そんな話を聞いて、まともにいられる訳ない。
感想・誤字報告を兼ねた拍手ボタン ←感想や誤字報告などありましたら、こちらをご利用下さい。