Act.5  熱情の抱擁 ...1

 はあ……あんまり眠れなかった。二日酔いとは縁がないから、あれだけ飲んでも昨日のお酒が残ってることはない。ただ、デートのことが気になって、まるで遠足を控えた小学生みたいに興奮しちゃって、寝ようと思えば思うほど目が冴えちゃってた。
 しかも、せっかくのお休みだし、篠宮さんが迎えに来るのは11時なんだから、もっとゆっくり寝てればよかったのに、会社に行くのと同じ時間に起きちゃうし……。
 シャワーを浴びて、朝ご飯食べて、お化粧して、加奈子に言われた通り、面接の時に着たオレンジのパンツスーツを着た。加奈子に買わされた、あの勝負下着を付けて……。
「いい? 男とデートする時は、これを着てくのよ!」
 加奈子がそう力説して、あたしはいいと断ったのに、凄いスケスケなパンティとブラジャーを買わされた。絶対タンスの肥やしになると思っていたのに……。
 パンツスーツなのに、足の間が物凄く心細い。見えるはずがないのに、とっても恥ずかしい気分。
 ふと、夕べの碧さんを思い出した。あのドレスの下は、やっぱりこういう下着なのかな?
「篁さんと恋人同士なんだよね? ってことは、加奈子が言ったみたいなお、大人の関係だったりする……んだよね?」
 うわぁ〜、声に出したら顔が火照ってしまった。あたしと篠宮さんが、そんな風になる訳?
 絶対信じらんない!! ブンブン頭を振って、今の言葉を取り消した。
 あたし、やっぱり昨日から変。加奈子に言われたからって、そんなこと想像しちゃうだなんて!! 篠宮さんが好きって分かってから、自分じゃないみたいなこと、いっぱい思ってる。
 た、ただでさえ今日は、か覚悟しなきゃいけないようなことが、あるかもしれないんだから!! もっと落ち着いてないと、篠宮さんに更に何をされるか!!
「お……落ち着いて落ち着いて」
 胸に手を当てて深呼吸していたら、ピンポン! 呼び鈴が鳴った。
 ドッキーン!
 ひゃ〜、来ちゃった来ちゃった!
 時計を見たら 11時5分前。うう、もうそんな時間だったんだ……。
 コートを着て、ショルダーバッグを持って、お化粧と服のチェックをして。……い、いいかなこれで。
 ガスと電気のチェックして、戸締まりのカギ持った。
 面接の時にはいて行ったパンプスをはいて、玄関を開けた。
 最初に地味っぽいグレーのスーツが目に入って、今日はカッチリした服装なんだ、と思って顔を上げたら、そこにいたのは黒髪にサングラスの男の人。
 この姿は見たことがある。もしかして……
「クリスさん?」
「おはようございます、響子様」
 深々とお辞儀した声は、やっぱりクリスさんだった。
 このパターン、もしかして……。
 クリスさんはサングラスを外して、凄く申し訳なさそうな顔をした。
「響子様、申し訳ございません」
「お仕事ですか?」
「いえ、そうではないのですが。……実は愁介様が熱を出しまして」
「え……」
 今の言葉には、頭が真っ白になった。
「ご心配には及びません。今朝方には熱も下がりましたし」
「熱……だ、大丈夫なんですか? 篠宮さん」
「ええ、医者の見立てでは過労ということですので」
 過労……やっぱり働き過ぎなんだ、篠宮さん。
「それで響子様には申し訳ないのですが」
 クリスさんが続けようとするのを、あたしは先回りして頷いた。
「分かりました。今日の予定はなかったことにすればいいんですよね」
 クリスさんが来た時にある程度予感していたのに、いざ言葉にしたら声が震えた。でも、クリスさんの口から言われるよりはずっといい。
 泣きそうになるのを堪えていたら、クリスさんの慌てた声が上から聞こえた。
「あ、いえ。そうではなくて」
「え?」
「ドクターストップが掛かりましたので外出は出来ませんが、起きている分には問題ありませんので、響子様がよろしければ愁介様のご自宅に行かれませんか?」
「はい?」
 ごごごご自宅!?
「で、でも、篠宮さんお休みしたいんじゃ……」
「それはご心配いりません。退屈で死にそうになっていますから。如何です?」
「あの……本当に、あたしが行ってもいいんですか?」
「勿論ですよ。そのために私は来たのですから」
 クリスさんの微笑みに促されて、あたしは「行きます」と言った。そんなことを言った自分にまたビックリだけど、やっぱり篠宮さんの顔が見たいと思ったから……。
 そのまま玄関を出てカギを閉めてクリスさんを見上げたら、何だかホウッとしたような表情をしてあたしを見ていた。
「え……あ、あの、クリスさん?」
「ああ……すみません。今日は髪を下ろされているので、つい見惚れてしました」
 み、みとれ!? そんなことないない、絶対ないですー!!
 心の中では叫んでたけど、実際口に出たのは「み……」だけだった。
「いつもお会いする時は、まとめた髪をアップにしてバレッタで留めていたでしょう。そうして長い髪を下ろしてブローされている方が、響子様にはお似合いですよ」
「う……そ、そうですか?」
 男の人にそんな風に言われたの初めて。何だか恥ずかしくなって、うつむいてしまった。
 この髪型は、「篠宮さんの前では、少しは大人っぽく見せなよ」と言って、以前に加奈子が見立ててくれたものだけど、実際やってみると自分じゃないみたい。
 ちょっとだけ、ちょっとだけ碧さんに近付けたような気がするけど、どうかなぁ……。でも、クリスさんみたいにカッコイイ男の人が見惚れるなんて、絶対ないよ! クリスさんて口が上手。
「では行きましょうか」
 そう言ってサングラスを掛け、あたしに手を差し出して来たから、驚いてポカンと見上げた。
「え? ……あの」
「お手をどうぞ。階段は危ないですからね」
 ひえ〜! そ、そんなことしてもらわなくても、一人で降りられます。
「あ、あ、あの、あたし一人で」
「いけません。今日は高いヒールの靴をはいておられるでしょう。私が付いていながら、響子様に怪我をさせてしまっては、立つ瀬がありません。さぁ、お手を」
 って言われても、あたしにそんなこと出来る訳ないよぉ! ……かと言って、一人で勝手に階段を降りることも出来なくて突っ立っていたら、クリスさんに強引に手を引かれてしまった。
「ク、クリスさん」
「すみません。ですが、このようなことにも慣れて頂きませんと、響子様が苦労をされますから。私では役者不足で申し訳ございませんが……」
「そ、そ、そんなことありません! ごめんなさい、あたしがこういう性格だから……」
「そのように、ご自分の口から言えるようになったことだけでも、成長していると思いますよ」
「…………」
 クリスさん、優しいなぁ。
 あたしは「野となれ山となれ」な気分で、足を踏み出した。あたしの速度に合わせて、クリスさんが歩いてくれる。そんなに広いアパートじゃないから、人が二人こんな風に並んで歩くだけで廊下の幅一杯になってしまう。
 途中、階段を降りていて住人らしい人とすれ違った時、クリスさんは「申し訳ございません、しばらくご辛抱下さい」と言って、あたしを壁際に寄せて自分の腕であたしの体を押さえるようにした。階段には、人が一人余裕で歩けるスペースが出来た。
 そんなことをされなくても、ここではいつも人とすれ違っているし、たくさん荷物を持っていても転げ落ちたことはないのに、クリスさんの顔は真剣そのもの。何か言うことも憚られて、あたしはすれ違う人の好奇の目を避けるように下を向いた。
 やっぱり、こんな普通のアパートでこういう扱いされるって、普通じゃないよね……。あたしだって、きっとこういう場面に出くわしたら、ジロジロは見なくても気にしちゃうもの。
 ようやくアパートを出られて、ちょっとホッとした。
 道路脇に停めてあったのは篠宮さんの車だった。やっぱり当然のようにクリスさんは、あたしの前で助手席のドアを開ける。
 その時、あたしの後ろの方から口笛のような音がした。そっちを見てみたら、若い男の人たちがニヤニヤ笑いながら、はやす様にあたしを見ていた。
 そ、そうだよね、碧さんならともかく、あたしなんかがこんなことされてたら、みっともないよね。
 あ、涙が出てきちゃった。どこかに隠れてしまいたい、いっそこの場でしゃがんでしまいたい! でも体は動かなくて、車に乗ることも出来なかった。
 クリスさんは小さく息を吐いて、サングラスを取ってからその人たちの方に顔を向けた。
 そうしたら急に静かになった。不思議に思ってそっちを見たら、その人たちがそそくさと早歩きで去って行くのが見えた。
「え……クリスさん、何をしたんですか?」
「なにも。ただサングラスを取って彼らを見ただけです」
 そう言って、またサングラスを掛けるクリスさん。一瞬だけ、あの薄蒼い瞳が見えた。
 そういえば、クリスさんてアメリカ人なのよね。髪を黒く染めてるし、日本語しか話せないから、すぐ忘れちゃうけど。クリスさんが外国人と分かって、あの人たちスゴスゴと行っちゃったんだ。そうだよね、外人さんならああいうエスコートは普通にするもの。
「すみません、あたしのために……」
「響子様が気にされることはありません。こういうことに使えるので、意外と便利ですよ、この顔は」
 そう言って笑ってくれて、あたしの気持ちが軽くなった。やっぱり、クリスさんて優しい気遣いの出来る人なんだ。
「あの……ありがとうございます」
「どういたしまして。ですが、私に感謝の言葉は不要です。これが仕事ですから」
「でも、あたしの気持ちなので……」
「では、お気持ちだけ頂いておきます。どうぞ、お乗り下さい」
 それ以上は何も言えなくなって、でももう一度心の中でお礼を言ってから、助手席に座った。静かにドアを閉めてから、車の後方を回って運転席に乗り込んだクリスさんは、シートベルトを締めて車を発進させた。
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