Act.4 これって試練ですか?...6

 はあ……
 秘書室から入る社長室のドアの前で、何度目かの溜め息をついた。
 時計を見れば午後1時。篁さんから言われた時間。でも、入るのが怖いよぉ。
 チラッと清水さんを見たら、パソコンに向かってキーを打ってる。
 うう、何か一言……、ちょっと見てくれればいいのに……清水さんはあたしの視線に気付かないみたいで、仕事に没頭してる。
 しょうがない、行くしかないのか……。
 すーはー、深呼吸して……よし、行こう!
 コンコン。ノックした先で「どうぞ」という声が聞こえた。
「し、失礼します」
 ドキドキする心臓を押さえて社長室に入ると、篁さんがデスクで書類みたいのを見ていた。他には誰もいなくて、ちょっとホッとする。
 篁さんに背を向けてドアを閉めて、怖々と近付いた。
「あの……しゃ、社長?」
「すぐに済みますので待っていて下さい」
 紙の束に目を通したまま、篁さんが言う。
 うわぁ、ドキドキが治まらないよぉ!
 思わず心臓の辺りを手で押さえたら、突然電話が鳴り出して、心臓が止まるかと思った。
 篁さんは電話機のディスプレイを見て、何故だか少し嫌そうな顔をした。社長さんの篁さんでもこんな顔をするんだと分ったら、ちょっとだけホッとした。
「何です?」
 推誰もせずに一言訊いた途端、篁さんは受話器を耳から遠ざけた。
 何だろう? と思った瞬間、受話器から物凄い怒鳴り声が聞こえて来てギョッとした。
『洸史! てめぇ、何考えてやがる!』
 な、なに!? もしかしてヤクザ?
 そんな訳ないのに、ついそんなことを思ってしまった。
 篁さんは迷惑そうに眉をしかめて、でも受話器は遠くにしたままボソッと言った。
「私はヤクザに知り合いはいませんよ」
『聞こえねぇよ! てめぇ、昨日の今日で白紙撤回で差し戻すんじゃねぇ!』
「無理難題を押し付けて来たのは、あなたでしょう」
 深く溜め息をついて、書類の束をデスクに置いた篁さんは、普通に受話器を耳元に持って行く。そうすると、当然だけど受話器からの声は聞こえなくなった。
「…… 分かっているなら、何故あんな無茶な命令を出したんです? …………こちらと向こう、双方の現場で出した結果です。ただでさえ強行スケジュールなんですから、これ以上の無理は却って失敗を招きますよ」
 何を話してるんだろ? ボーッとしながら篁さんを見ていたら、チラッとこっちを見た。ドキッとする。だって、篁さん本当に凄く綺麗な顔してるんだもん。
「あなただってご存じでしょう? ドイツ支社の事業は、通常よりも規模が大きいんですよ。これ以上デカくしてどうするんです?」
 その言葉で、昨日の件だということは分かったけど、電話の相手って誰なんだろ? なんか、聞いたことあるような声だったけど……?
 誰の声だっけ? と考えていたら、篁さんが額を覆うように空いてる手をあてて、大きく息を吐いた。
「愁介、いったいなにを考えてるんです?」
 ぶっと吹き出すのを、懸命に堪えた。そう、どこかで聞いた声と思っていたら、篠宮さんだ。
 え? あれ? さっき命令って言ってたけど、社長さんは篁さんってことは、篠宮さんて更にその上司? 社長より偉い人って会社にいるの?
 訳分かんないでいると、篁さんが急に脱力したように、椅子に沈み込んだ。
「全く、そういう理由で振り回すのはやめてくれませんか? …………まぁ確かに、大きな山場を越えたところでしたから、気が緩む兆候はありましたけどね。それでも、他にやり方はあったはずですよ。全くあなたは……」
 呆れたように言って、篁さんは黙ってしまった。
 篠宮さん、まだ外国にいるのかな?
 そんなことを思っていたら、また篁さんがあたしを見た。な、なんか意味深な視線に見えるのは、気のせいだよね?
「そういうことは本人に言ったらいいでしょう。……ええ、最初からいましたよ」
 ひぇ、それってあたしのこと!? だよね……
 なんて思っていたら、篁さんがあたしに受話器を向けて来た。
「え? あの……たか、社長?」
 意味が分からないでいたら、「あなたにです。愁介からですよ」と言われた。
「え……で、でも」
 勤務中なのにいいんですか? と聞こうと思ったら、『響子、いるんだろ。出ろ』という受話器からの声。
 それに応えるように、篁さんがあたしに向けて受話器を差し出した。
「出てあげて下さい。彼も今」
『洸史! 余計なこと言ってんじゃねぇ!』
「……ということなので」
 な、何が、ということなんですか!? 苦笑しながらサラッと言わないで下さい!
 そんなことを口に出せるはずもなく、渋々受話器を受け取った。
「あの……もしも」
『[うるせぇ、俺が今電話してんのが分かんねぇのか!?]』
 し、と言い終える前にそんな怒鳴り声が聞こえて来た。ビックリして受話器を落としそうになってしまった。
 え、これって英語?
『[しかし愁介様、もう業務は終わっているのですから、早く休みませんと明日に……もう今日ですが、響きますよ]』
『[何だよ、お前が優しいなんて気味悪いぜ]』
『[勝手に言ってなさい。はっきり申し上げれば、あなた無しでは組織は立ち行かないんです。今日はスペインの支部長、スペイン国王との接見があるのですから、寝不足の顔で出られては困ります]』
『[ったく、だったら事務職と会見職を分けろよ]』
 えっと何だろ? 速過ぎて何を言ってるのか全然分かんない。スパニッシュって聞こえたから、今はスペインにいるのかな? 最初にイギリス行ったんだよね。それでイタリアで年越しして今はスペインにいるの? 篠宮さんてホントに忙しい人なんだ。お仕事って何やってるんだろ?
『[分けているでしょう]』
『[何がだ?]』
『[仕事をです。これでもあなたの事務職は減らしているんですよ]』
『[…… あの山のような決裁書の束でか!? 大体、今時なんで紙で決裁なんだよ!]』
『[セキュリティ面では、それが一番安全だからです! とにかく、一分で切り上げて下さい。そしてさっさと寝ること! 私としてはこれでも譲歩してるんですよ。分かっているとは思いますが]』
『[ちっ、分ってるよ。前と比べりゃ、お前も丸くなったさ]』
『[分かればよろしい。……響子さんがお待ちですよ]』
 ミス・キョウコって……急にあたしの名前が出て来て驚いた。
「あ、あの……篠宮さん?」
『ああ、悪かったな、響子』
「い、いえ。あの……お仕事ですか?」
『ああ、まあな。どうだ? 研修は。っつっても、まだ二日目だから実感わかねぇか』
「あ、それは、はい……」
『洸史は優秀だからな、あいつに任せときゃ大丈夫だ。お前はあいつを追い掛けてりゃいい』
「はあ……」
 思わず篁さんを見ちゃった。パソコンのディスプレイを難しい顔で眺めてる。ちょっと眉間に皺が寄ってる。微笑んでる顔しか見たことなかったから、何て言うか新鮮な感じがした。
『響子、洸史に見惚(みと)れてんじゃねえ』
「み、見惚れてなんかいません。なんでそんなこと」
『お前が分りやす過ぎるんだ!』
 そんなきっぱり言わなくても……。電話なのに、そんなこと分かっちゃうんですか!?
 わ、話題を変えよう。
「あの、篠宮さんて英語が上手なんですね。ビックリしました。今はスペインにいるんですか?」
 だからってこれはないだろうけど、思ってたのはホントのことだから。
『お前、英語も出来るのか?』
「え!? そ、そんなわけありません! ただ、よく耳にする言葉だから英語だって分かっただけで、唯一聞き取れたのがスパニッシュだったんです」
『ふん、まあいい』
 信じてくれたのかなぁ? 今度は英語が出来るとか思われると困るんだけど。ホントに出来ないから……。
『ちっ、うるせぇ奴が来たから切るぞ』
「あ、あの! いつ頃戻ってくるんですか?」
 昨日加奈子が言ってたのを思い出して、慌てて訊いてみた。篠宮さんから電話が来たら訊いとくように言われてたから。黙ってればいいのかもしれないけど、あたしはそういうことが出来ない性格なのは、自分でもよく分ってるし。
『なんだ、期待してんのか?』
 うわぁーん、鼻で笑われた。訊きたがったのはあたしじゃないのにぃ。
「きき、期待なんてしてません! ただ、あの……去年の」
『覚えてるってことは、どっかで期待してんだろ』
「し、し、してません!!」
 ……力一杯否定したけど、篠宮さんの声が聞けて嬉しいってちょっとだけ思っちゃったのは、あたし、ホントは期待してるってことなの? ……かな?
『まぁいい。そういうことにしといてやるよ。帰国する時に電話する』
『愁介様、ヒューズが……』
 あ、クリスさんの声だ。ヒューズって何だろ? 電気のあれ?
『分ってるよ。1分過ぎたってのに、あいつにしちゃ大人しいじゃねぇか』
『それは……多分あれでも、愁介様のことを心配しているんですよ。もう夜明けですし』
「よ、夜明け!? なんですか!?」
 クリスさんの言葉に驚いて、つい口を挟んじゃった。
『ん? ああ、今こっちじゃ明け方の5時過ぎだ』
 篠宮さん、さっきからあくび混じりでしゃべってた。
「えっと……早起きしたからですか?」
『んな訳あるか! まぁ仮眠は取ったがな。こっちじゃいつもこんなもんだ』
 いつもって……。一体どんなお仕事してるんですか!?
『愁介様、ヒューズが縄持って待機してますから、早く切り上げないとベッドに縛り付けられますよ』
『ったく、ヒューズも少しはセシルを見習って大人になれよな』
『同じセリフを愁介様にお返しします。それにこれに関してだけは、私もヒューズと同意見ですから』
 ヒューズって人の名前だったんだ。もしかして、さっき英語で話してた人かな?
 しれっとした感じのクリスさんの声に、思わずクスッと笑っちゃった。
『響子、いい度胸だな。帰ったら覚えてろ』
「え!? ちょっ」
 と待って下さい、と言う前にブツッと通話が切れた。
 篁さんに変わらなくていいの!?
「あの……たか、社長」
 うう、社長って呼ぶの、まだ慣れないよう!
「電話切れちゃったんですけど」
 ツーッツーッと音の続く受話器を指差して訊いたら、篁さんは「構いませんよ。用事は済みましたから」と笑顔で言った。
 なるべくその笑顔を見ないようにして、受話器を電話機に置いた。
 そういえば……
「あの、昨日のドイツ支社の規模の変更のお話って、篠宮さんからだったんですか?」
「ええ、そうですよ」
 あっさり肯定された。それってつまり?
「あの、社長……さんよりも上の人って、会社にいるんですか?」
 うわ、なんて間抜けな質問の仕方。きっと呆れられちゃったよね。でど、篁さんは至極真面目な顔だった。
「ええ、いますよ。愁介は会長です」
「……? 会長?」
 カイチョーって何だっけ? と一瞬頭の中が真っ白になった。
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