Act.4 これって試練ですか?...4

 翌日も会社に行った。今週は仕事を覚えられるようにってことで、木曜日まで毎日出社することになってる。
 今日は9時10分前に秘書室に入ったら、清水さんがもう来てた。そういえば、昨日は早く来ちゃったあたしよりも更に早くいたよね。
 うわっ、大先輩より遅く来たらマズいじゃない!
「お、おはようございます。すみません、あたしのほほんとこんな時間に来ちゃって」
 青褪めて挨拶したら、清水さんは笑って言った。
「おはよう、島谷さん。気にしないでいいわよ。私がこの時間を指定したんだから」
「え……で、でも」
「大丈夫よ。私はここから歩いて10分程度のところに住んでいるの。だから、早く来るのは苦ではないわ。それに、一人で終わらせておきたい仕事もあるの。あなたがこの時間に来てもらうのは、私の都合でもあるのよ。だから気にしないでこの時間に来て頂戴」
「は、はい。分かりました」
 ホッとした様な、でもちょっと複雑な気持ちでペコッとお辞儀して、自分のデスクに着いた。
 パソコンを立ち上げてメールを開くと、うわっ。当たり前だけど、昨日退社した時よりもメールの数が増えてる。
 試しに一番新しいのを開いてみた。
 昨日の、支社の規模を倍にするって話があってから、だんだんと戦々恐々とした内容のメールが送られてきていたけど、このメールはそれ程危機迫ってない。何とか目処がついたのかな?
 何にしても、あの嘆きのような文面は、訳しててとっても気の毒だったから、少しだけ気が楽になった。
 それに、このメールが届いたのは、ドイツ時間の午後10時。ヨーロッパの人がこんなに遅くまでお仕事してるなんて、珍しい。それだけ大変な騒ぎだったのね。
 あたしは昨日残してしまった分から、メールを訳していった。あんなに切羽詰まっていたのに、何故かだんだん内容が落ち着いて来てる。やっぱり、何とか目処がついたんだ。
「おはようございます」
 ドアの音は聞こえなかったけど、男の人の声がした。支倉さんだ。
「おはようございます」
 あたしはキーを打つ手を止めて、立ち上がってお辞儀した。先輩へのご挨拶はちゃんとしなきゃね。
「僕にはそんな、丁寧に挨拶して頂かなくてもいいですよ」
 支倉さんが笑って言った。
「え……でも」
「立ち上がって礼する間に、仕事を少しでも進める方が、ずっと有益ですよ」
 それは……何か素っ気無い感じ。
「ああ、もちろん挨拶はしなければいけませんが。業務の手を休めてまでする必要はないと言ったんです。言葉が足りませんでしたね、すみません」
「そ、そんな……支倉さん、謝らないで下さい。あたしが早とちりしただけですから! す、すみません」
 うわぁん、今日は先輩に謝らせちゃったよぉ。きっと顔に出ちゃったんだ。気を付けなくちゃ!
 必死に謝るあたしに笑いながら手を振って、支倉さんは自分の席についた。
 気を取り直してメールの翻訳を続けていたら、今度は清水さんから声を掛けられる。
「島谷さん、9時45分よ」
「あ、はい」
 デスクから離れて、昨日教えられた通りにコーヒーを作った。
 戻ってくると清水さんがいない。
「社長がいらして、ご挨拶に行ったよ」
 支倉さんが教えてくれた。も、もしかして不安そうな顔で清水さんを探しちゃってたのかな? うう、早く慣れるようにしないと。
「あ、あの……」
「うん、なに?」
 あたしの遠慮がちな声に、支倉さんはわざわざキーを打つ手を止めて、あたしを見てくれた。
 す、すみません、手を止めて頂く程の質問じゃないんですが……。
「たか、社長はどんな風にいつも来られるんですか?」
 昨日も支倉さんがあたしと清水さんに教えてくれたよね。社長室には、ここと行き来出来るドアの他に、廊下に繋がってるドアがあったけど……。
「ああ、社長はいつも直接社長室に入られるよ。10時頃にここに顔を出して下さるけど、本当のところ何時に出社されているのかは、僕も知らないんだ」
「え? でも、それでいいんですか?」
「まあ、今までそれで問題はなかったし、社長にも色々都合があるだろうからね」
「そうなんですか……」
 なんか、支倉さんも篁さんも意外とドライな人?
「質問はそれだけ?」
「あ、はい。わざわざ手を止めて頂いて、ありがとうございました」
 深々礼をしたら、笑って言われた。
「このくらい何てことないよ。島谷さん優秀だし、僕も期待してるから」
 ギョッ!? 支倉さんまでそんなことを!?
「き、き、期待なんかしないで下さい! あ、あたしはそんな」
「そうかな? 昨日島谷さんが訳したメールを読んだけど、難しい経済用語もちゃんと適切な日本語に直してあるって、社長が褒めてたよ。新卒の研修で、正直ここまで勉強してた人は、僕の知る限りいないよ。だから、僕も清水さんも島谷さんには期待してるんだ」
 言うだけ言って、支倉さんは自分の業務に没頭してしまった。
 うわぁん、ホントに期待なんかしないで下さい! 大したこと出来ないのに……。そりゃあ、足手まといにならないようにって思って、ドイツ語の経済用語は勉強したけど、昨日やっててやっぱり知らない単語はあったし……はぁ。
 泣きたい気持ちで自分のデスクについて、メールの翻訳を始めた。あたしの出来ることって、これくらいしかないもんね。

 
 

 それからお昼までは昨日と同じ。ドイツから届くメールを翻訳していく。昨日よりちょっと届くメールが減って、あたしもちょっとだけ慣れたのか、清水さんからお昼ご飯を誘われる頃には、殆ど終わってしまった。
 ドイツはこの時間は真夜中だから、メールが来なくても不思議じゃないけど。
 清水さんは、あたしが席に戻ってからもずーっといなくて、12時近くになってやっと社長室から出て来た。
「島谷さん、ちょっと早いけどお昼に行きましょうか」
 戻ってすぐの開口一番がそれで、あたしは驚いた。
 昨日も一緒に食べてくれたのは、あたしが初めてだったからだと、思ってたのに。
「あの……でも支倉さんは……」
 遠慮がちに言ってみたら、支倉さんは笑いながら手を振った。
「僕は後で行くから、先に行っていいですよ。抜けられる時に行かないと、昼食を食べはぐれることもありますからね」
 えー、でも先輩を差し置いてあたしが行っちゃっていいんですか?
 ……なんてことはまだまだあたしに言えるはずもなく、でも何か言わないといけないような気がして、モジモジしていたら、清水さんに手を掴まれた。
「じゃあ支倉くん、後よろしくね」
「え? え、あの……」
 清水さんに引きずられるような感じで、あたしは秘書室を後にした。
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