Act.4 これって試練ですか?...2

「社長は何か特別な用事がない限り、10時には出社されるわ。だから、それまでの1時間で、私たちは今日一日のスケジュール調整や業務の確認をするのよ。あなたは……そうね、先ずはパソコンを立ち上げてくれる?」
 あたしの机……じゃなくてデスクについてから清水さんにそう言われて、あたしは知ってる限りの知識でパソコンの電源を入れた。アパートにも自分のパソコンはあるけど、使い方なんてインターネットを見るのと、ワードで論文書くのしか知らない。それでも何とか出来て、ちょっとホッとした。
「立ち上げた? それじゃあ今からあなたにメールを送るから、それを見て。メールアドレスはこちらで設定してあるわ」
 うわわ、清水さんの顔が真剣そのもの。もうお仕事に入っているんだ。
 清水さんが自分のデスクに戻って、マウスとかを動かしてる。何というか、大学の教室みたいな雰囲気。あたしたちのデスクの前方に、清水さんのデスクが対面する形で置いてあって、いつでも顔が見える位置になってる。その斜め後ろに、『社長室』って書かれたプレートの付いているドアがあった。つまり、あそこから篁さんのところに行くのね。うわー、緊張する! 今日どんな顔して篁さんに会えばいいんだろ!?
 あたふたしてる内にメールが届いて、あたしはそれを開けた。すぐに絶句したけど。
「あの……これ」
「社長から聞いているでしょう、この4月からドイツに支社が出来るのよ。今はそれの打ち合わせや会議で忙しいの。そのメールは向こうからのものよ。いつもは私が辞書と翻訳ツールを使って訳しているのだけど、時間が掛かってしまって他の業務が出来ないの。だから、あなたが来てくれたのは本当に心強いわ」
 えっと……研修初日で、いきなりですか? しかも……
「あの、メールの数が20通くらいあるんですけど」
「そう、昨日の夕方以降届いた分ね。多い時には一日で50通くらい来ることもあるわ。今は向こうとの調整もついているから、今後はそれ程多くはないはずよ」
「は、はい……。あの、これは社員の方かたにも行くんですか?」
「え? ああ、違うわ。これは社長宛ての分。ドイツ支社設営のプロジェクトは、国際管理部が担当しているのよ。あっちはあっちで、ちゃんとやっているから大丈夫よ」
 凄い。やっぱり社長さんともなると、いっぱいメールが届くのね。
「とりあえず、社長が来るまでそれの翻訳をお願いね。受信順に訳していって頂戴。今、入力用のフォーマットを送るから、それに記入していってくれる?」
「あ、はい、分かりました。……あの」
「なに?」
「電話を取るのとか、しないといけないんですよね? どうしたらいいんですか?」
 そう、確か秘書っていうのは、社長さん宛に来る外部からの電話とか、社員から来る電話の応対もしなきゃいけないって、秘書ノウハウの本に書いてあった。そういうの、やらなくてもいいの? いきなりやれと言われても、あたしにはそういうの経験ないし……。
 不安になっていると、支倉さんが窓際のデスクから教えてくれた。
「それは僕たちがやっていくから、島谷さんはそれを見て覚えてくれればいいですよ」
 はい!? 見て覚えろって……本気ですか!?
 ……って言えるはずもなく、そうしたら妙にタイミングよく電話が鳴って、支倉さんが取ってくれた。支倉さんの声は聞こえると言えば聞こえるけど、翻訳するのに夢中になっちゃったら、絶対聞き逃しちゃう! 気を付けなくちゃ!

 
 

 静かな部屋の中で、パソコンのキーを打つ音だけがしてる。なんか、すっごく心細い気がするのはあたしだけ?
 始まってしばらくは電話がたくさん鳴ってうるさかったけど、今は静か。その静けさが、何となくあたしを不安にさせる。
 メールの翻訳は、知らない単語があってちょっと大変だけど、訳すのはそれほど苦じゃない。自分の出来ることが他人ひとのために出来るって、嬉しいことなんだって初めて知った。これなら、この仕事も考えていたほど大変じゃないかな?
 なんて思いながら10通目のメールを訳していたら、清水さんから声を掛けられた。
「島谷さん、そろそろ社長の来られる時間よ。準備をするから一緒に来てくれる?」
「あ、はい」
 パソコンに表示されてる時計を見ると、09:45になっていた。
 清水さんの後についていくと、ここの部屋の隅にあるパーティションの奥に本格的なキッチンがあって、ちょっとビックリした。
「仕事が立て込むと泊まることもあるの。そういう時、ここは便利よ」
 なんて笑いながら言ってるけど、秘書で泊り込みなんてお仕事があるんですか!? やっぱり大変なのかも……。
 それからコーヒーメーカーの使い方とか、篁さんに出す時のコーヒーの淹れ方を教えてくれた。
「社長専用という訳ではないから、あなたも飲みたくなったらこのコーヒー飲んでもいいのよ。それと冷蔵庫も使って構わないから。私や支倉くんは、飲み物や食事の時間が取れなかった時のための非常食を入れているわ。あ、名前は忘れずに書いておいてね。名前がないと大抵その日の内になくなっちゃうから、気を付けて」
「あ……はい」
 ご飯の時間が取れないって、そんなに忙しいことがあるんですか? なんかまたちょっと不安になってきた。
 なるべく顔に出ないように気を遣って、心の中で溜め息をついたら、清水さんがニコッと笑って言った。
「そんなに心配いらないわよ」
「え!?」
「支倉くんとの二人体制では、猫の手も借りたいほど多忙なこともあるけれど、あなたはまだ学生の身だもの。さすがに社長も鬼のように仕事を出すことはないでしょう」
 お、鬼のように……ですか? あの篁さんが?
「あ、あの……あたしまた顔に出てました?」
「そうね、少なくとも私は分かったわよ。ご飯も食べられないって、不安になってなかった?」
 ガーン!
 あんなに気を付けていたのに……、やっぱりあたしってダメだぁ。
 なんかもう逃げ出したい気持ちでいたら、清水さんがクスッと笑った。
「あのね、気を付けるようにしたからって、顔に出る癖がすぐに直ることはないのよ。無意識に出てしまうのだから、出さないように意識すると却って挙動不審になるの。そうなると逆効果よ。だから、自分をコントロールする術を少しずつ身に付けて行きなさい。そのうち自然と出ないようになるから、ね」
「は、はい……」
 ああ、でも……。このどんくさいあたしにそれが身に付くのは、いったい何年くらい掛かるんでしょうか? はぁ、気が重いよぉ。
「そんなに心配しなくても、家に帰れない程忙しいことなんて、一年に数回ある程度だから」
「はい……」
 清水さんみたいに笑って言えるようになる日が、あたしに本当に来るの!?

 
 

 色んな意味で打ちひしがれていたら、「清水さん」と支倉さんの呼ぶ声が聞こえた。
 清水さんと一緒にあたしも見てみたら、支倉さんがちょっと緊張したような表情で壁を指差していた。それは社長室のあるドアの方で……。
「あら、社長がいらしたようね。いらっしゃい」
 ええ!? ま、まだ心の準備が出来てないんですけど!?
 なんて言ってる暇もなく、清水さんはさっさと行ってしまう。
「あ、あの。コーヒーは……」
「頼まれた時に持っていけばいいわ。先ずはご挨拶しなければ。ついていらっしゃい」
「は、はい……」
 ひぇ〜!! ご挨拶って、何を言ったらいいの!? よ、よろしくお願いしますとか!? 分かんないよぉ!!
 頭の中がグルグルしたまんま、ただ清水さんの後ろについて行って……ついに入ってしまいました! 社長室!
 うわぁ〜、面接の時以来だよぉ。
「社長おはようございます」
 すぐ前で清水さんの声が聞こえたけど、緊張して顔上げらんない。
「おはようございます、清水さん。今日もよろしくお願いします」
 とても社長とは思えない言葉は、篁さんだよね。優しい声は以前と変わってないなぁ。
 なんて下を向いて考えていたら、急に背中を押されてつんのめってしまった。
「今日から秘書研修に入ります、島谷響子さんです」
 ぎゃっ! いきなりですか!?
「さ、ご挨拶なさい」
 耳元で清水さんが囁いてくれて、おずおずと顔を上げた。
 広い部屋の、大きな黒っぽい机に腰を下ろすような形で、篁さんは腕を組んであたしを見ていた。
「あ、あの……し、島谷響子です。今日からお世話になります。ふ、ふつつか者ですがよろしくお願いします!」
 どもって恥ずかしくて、顔が真っ赤になるのが分かったけど途中で止めることなんか出来なくて、お母さんに教えてもらった通りに挨拶してお辞儀した。
 ドキドキしながら篁さんを見たら、前に見た時と同じように、優しそうな笑顔でいてくれて、ちょっとホッとした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。島谷さんには初めてのことばかりで大変でしょうが、清水さんは信用出来る人です。彼女を見て学習して下さい。期待していますよ」
 き、き、期待なんかしないで下さい! ちっちゃく、ちっちゃく胸のところで手を横に振ったんだけど、そんなの気付いてもらえるはずないよね。
「ところで社長、何か懸案することでもあるのですか?」
 篁さんにご挨拶もしたし、やっと秘書室に引っ込めると思っていたら、清水さんが急に言い出して動けなくなってしまった。
 ……っていうか、今日入ったばっかのあたしがいるのに、そんなお話していいの?
 でも、篁さんはあたしがいても構わずに話してる。
「例のドイツ支社の件で、横やりが入りました」
 そう言いながら、組んでる腕の右手で人差し指を立てて上を指した。さっきまで優しげだった顔だったのに、今は真顔。清水さんの綺麗な眉間に皺が寄った。
「まさか、規模を縮小するように?」
「いえ、その逆です」
「逆? といいますと……」
「ええ、組織・人員・社屋、共に倍にするように言ってきましたよ」
「…………」
 清水さんが黙っちゃった。どうしたんだろう? って思ってそっと見てみたら、ちょっとボー然としていた。えっと、そんなに凄いことなんですか?
「ですが、何故今更そのようなことを?」
「さぁ? 彼の考えていることは、私にも分かりませんからね」
 篁さんは、組んでいた腕を解いて机から腰を上げた。
「清水さん、早速ですが国際管理部に今回の変更を伝えて、プロジェクトの主要メンバーを第一会議室に呼び出して下さい」
「承知しました」
 会釈した清水さんにつられて、あたしもちょこっとお辞儀した。
 え? 篁さん、あたしを見てる? なんで?
「島谷さんには来たばかりで申し訳ありませんが」
「は、は、はい」
 何故かピッと背筋が伸びた。学生時代の授業中に先生に呼ばれた時みたいな気分。
「こちらで予定していた仕事よりも、大幅に増えてしまうようです。あなたの出社スケジュールは、大学と交渉したものなのでこれ以上増やすことは出来ません」
「はい……?」
 え? だ、だから? 何なんでしょうか?
 ちょっとビクビクしながら篁さんを窺っていたら、ニコッと笑われた。
「あなたにとっては試練になるでしょうが、頑張って下さい」
「…………」
 そ、そんなこと笑顔で言わないで下さいぃ!
 清水さんが退出の挨拶をして、あたしを促して秘書室に戻してくれた。

 
 

 ホッとしたのもつかのま。清水さんにポンッと肩を叩かれた。
「大丈夫?」
「は、はい……。なんというか、もう何をしていいのかさっぱりです」
「そんなに悲観的にならなくても、急に仕事が増えることはないわよ。たぶんね」
「はあ……」
 たぶん、ですか?
 チラッと不安げに清水さんを見上げた。
「こういうこと、よくあるんですか?」
「そうね。たまに、かしら。いつもはこういうことはないのよ。大体、新しく何か立ち上げた時は、色々あったりもするけれど。今日のは珍しいわね」
 清水さんも困惑してるみたい。……ってことは、たまたまなんだ。ちょっと安心した。
「あの……たかむらさ、しゃ、社長さんが横やりが入ったって言った時、上を指してましたよね? 何かあるんですか?」
 さっき見てて疑問に思ったことを訊いてみたら、清水さんがすっごく驚いた顔をした。
「あの、訊いたらいけなかった……ですか?」
「いえ、そうじゃないのよ。ごめんなさい。意外だったから」
 え? 何が?
 何のことか分からずにいたら、清水さんがにっこり笑った。何故かその笑顔に、裏がありそうな感じがしたのは気のせい?
「意外、ですか?」
「ええ。色々超えるべき課題はありそうだけど、見るべきところは見ているのね。安心したわ」
「はあ……」
「それについては、いずれ社長から話があるでしょう。私から言うのは、ある意味越権行為だわね」
 そういうものなんですか?
 なんか色々あり過ぎて、ふらふらしながら自分のデスクについた。ちょっと気が重くなりながら届いたメールの翻訳を続けたけど、3通片付けると4通届いたりして、なんか全然終わりが見えなくて凄く焦ってしまった。
感想・誤字報告を兼ねた拍手ボタン ←感想や誤字報告などありましたら、こちらをご利用下さい。