いかにもキャリアウーマン、と言った感じの女の人が、あたしに右手を向けてきた。
「あ、はっ、よ、よろしくお願いします!」
こんなにニッコリ笑って歓迎されるとは思ってもいなかったから、あたしは焦りながら右手を出して、何とか握手をした。
今日から篁さんの会社で秘書の研修。一生来なくてもいいと思う日だったけど、そういう訳にもいかない。
朝起きた時から憂鬱ではあったけれど、お母さんが就職のお祝いに新しいスーツを買ってくれたし、お父さんは立派な会社に入ってくれたって、泣いて喜んでくれた。あんなに喜んでくれた両親を裏切ることはしたくないもん。頑張んなきゃ!
9時に秘書室へ来るように言われていたのに、あたしが会社に着いたのは8時30分。いくら緊張してたからって、早過ぎよね。
でも、どこかで時間を潰すというのも、その時のあたしには考え付かなくて、そのまま受付に行ってしまった。
「あの、今日から研修を受けさせて頂きます、島谷響子ですけど」
来るたびに同じ女の人の様な気がする。カウンターの中にいるお姉さんは、ニコッと笑った。
「おはようございます。秘書、受かったんですね。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます。その……こ、これからよろしくお願いします」
うわ、緊張。声も上ずっちゃったし、あたし大丈夫!?
ドキドキしていたら、受付の人が何か取り出した。
「これをどうぞ」
「あ……ありがとうございます」
受け取ったそれは、首から下げるIDみたいな物だった。
ラミネットカードみたいになっていて、あたしの名前と写真、それに秘書課研修っていう文字が書いてある。
「4月になりましたら、正式な社員証が配布されます。研修中はそれを必ず携帯して下さい」
よく見ると受付の人の胸にも、同じ様な社員証みたいなのがある。あたしのよりもずっと、しっかりした作りになってる。
「はい、分かりました」
ペコッとお辞儀した時、他に同じ様な研修の名前が付いたカードがあった。他の部署でも研修に来る人っているんだ。ちょっとホッとした。
**********
この前乗ったエレベーターで、50階に行った。あの時は全然気付かなかったけど、社長室の手前に秘書室っていうのがあるんだ。
ゴクッと生唾を飲んで、恐る恐るノックしてみた。
「どうぞ」
誰もいなかったらどうしようって思ってたら、女の人の声がしてホッとした。
「失礼します」
中に入ると、スーツを着た女の人が笑顔で近付いてきた。濃いえんじ色のスーツで派手ではないけど、物凄く存在を主張するような人だった。
「どうしたの? ドアを閉めて、こちらにいらっしゃい」
「あ、は、はい。失礼します」
部屋の中はこの女の人だけで、とっても広い。机がいくつあるんだろ。
「島谷響子さんね? 私はここの室長の清水美佐子よ。よろしく」
いかにもキャリアウーマン、て感じ。あたしよりずっと年上に見えるけど、美人でカッコよくて、思わず見惚れちゃった。
「あ、はっ、よ、よろしくお願いします!」
あたしはどもりながら右手を出して、何とか握手をした。
「早いのね。感心だわ」
ドキッ。
「あ、あの! 意識して早く来たんじゃないんです。その……緊張してて、会社に着いたらこんな時間で……す、すみません」
顔を上げられなくて、うつむいて一生懸命言ってたら、クスクス笑う声が聞こえた。……恥ずかしいよぉ。
「社長の言ってた通りね」
は!? 社長と言ったら篁さんだよね? 言ってた通りって……?
「顔を上げて」
怒られるの覚悟で清水さんを見たら、ホントにおかしそうに笑ってた。
「早く来たことを褒められたら、普通は弁解なんてしないわよ。正直なのはいいことだけど、今のは余計な一言ね」
うう……すみません。ああもう、早速怒られちゃった。
「怒った訳ではないわ。あなたにとっては、しばらくは耳に痛いことを言われるでしょうけど、何度も注意されなければいいのよ。だから、そんなにしょげないで」
清水さん、凄く優しく言ってくれて、……こんなあたしですみません!
「あなたの席に案内するわ。いらっしゃい」
「机は私のを含めて10個あるけれど、社員で残っているのは私と他に一人だけなの。あなたの同期が他に4人いるから、当面の間は7人で仕事をこなさなければいけないわ。かなりの多忙になるから、覚悟しておいてね」
篠宮さんから話は聞いてたけど、ホントに元いた人たち、いなくなっちゃったんだ。
…………うん? なんか今、覚悟しておいてね、とか言ってなかった? 研修よね、これ。何だかだんだん不安になってきた。
「ここがあなたの席よ」
机は結構広くて、パソコンのキーボードが小っちゃく見える。しかも隣りの机が遠い。人がすれ違ってもまだ余裕がある。なんか、ドラマとかで見る会社の秘書室とは、全然違う。
「デスクが一つ一つ島になっているのは、お互いのプライバシーを守るためと、機密保持のため。全員社長直属の秘書だけど、それぞれに仕事を任されることも多いのよ。余計な情報漏洩は避けないとね。ただし、秘書同士の連絡は密に行っているから、誰がどんな仕事を任されているかは、全員が把握しているわ」
「……はい」
なんか色々言われ過ぎて、頭がワカメになりそう。
「ごめんなさい、一度に教え過ぎたわね。仕事をしていれば、自然と分かっていくと思うわ」
うわぁ……先輩に気を利かせちゃった。す、すみません!
心の中で一生懸命謝っていたら、清水さんに笑われちゃった。
「島谷さんて、思ったことがストレートに出てしまう人なのね」
ギョッ!?
「え……あの、か、顔に出てました!?」
「ええ。いま私に謝ってなかった?」
「…………」
「当たりみたいね」
「す、すみません」
「謝ることないわ。でも、秘書は社長のお供で取引先に同行することもあるから、直した方がいいわね。大事な取引で秘書の顔でこちらの思惑が丸見えなのは、いいことではないわよ」
う……そうですよね。
「でも、それも仕事をしていく内に自然と身に着いていくわ。だから焦る必要はないわよ」
清水さん、笑顔で言ってくれてるけど、こんなに手が掛かっちゃってごめんなさい。
「それから、お茶汲みは基本的にする必要はないわ。コーヒーだけは、来客用と社長のために予め淹れておくけれど。掃除も専門のスタッフがいるから、する必要はないの。つまりは、自分の仕事に集中しなさいってことね」
「それって篁さんの方針なんですか?」
つい口を挟んで訊いちゃったら、清水さんの笑顔が微妙に変化した。
「す、すみません。変なところで口を挟んじゃって」
「それは別にいいのだけど」
「はい……」
「社内で『篁さん』なんて言っちゃダメよ。『社長』とお呼びしないと」
「は、はい。すみません」
「社外の人に社長のことを話す場合は、『篁』と言わなければいけないわ。あなたはどうやら『篁さん』で慣れてしまっているようだから、今日中にそれを直してしまわないとね」
「は、はい!」
うわぁ〜ん、またまた怒られちゃった。
「そんなに硬くなることはないわ。今日一日は、仕事の内容と秘書の役割を覚えてもらうだけだから」
だ、だけ……ですか? あたしにはハードル高そうですが……。
不安だらけの状態で、時計はいつの間にか9時になるところだった。
「おはようございます」
いきなりドアが開いて、入ってきたのはきちっとスーツを着た30代くらいの男の人。あたしを見て「おや」って顔をして、それから清水さんに視線を移した。
「おはよう、支倉くん。彼女が今日から研修に入る、島谷響子さんよ」
「あ、よ、よろしくお願いします」
急に紹介されて動転しちゃった。どもっちゃったの、変に思われてないかなぁ……。
「どうも、こちらこそよろしく。支倉慎吾です。今まで平だったんですけどね、今回の人事で清水さんのサブに回ることになりました。ま、お互い新人みたいなものですから、気楽に行きましょう」
フレームレスの眼鏡を掛けた支倉さんは、笑顔で右手を差し出してきたので、握手した。スラッとした立ち姿で、背もあたしより頭半分高い。男の人と握手なんてあんまりしないから、なんかドキドキしちゃった。
「さあ、今日はこの3人で業務をこなさないといけないのだから、頑張りましょう」
えー!? さ、3人ってあたしも入れて!?
「あ、あ、あの……他の人たちは……」
「1人は2月からの研修だけど、今月中に後の3人が入ってくれるわ。あなたが一番乗りよ。頑張ってね」
あ、ははは……、清水さん〜〜、そんな笑顔で言わないで下さい。