Act.3 叶わなかった夢 ...4

 うつむいていた頭を優しく撫でられた。それは、どう考えても隣りに座っている篠宮さんの手で。堪えていた涙がボロッと落ちてしまった。
「笑って悪かったな」
 泣いてるために声が上手く出せなくて、あたしはただ首を横に振った。
 あたしが聞いたことのある篠宮さんの、どんな声よりも穏やかな口調で優しい声だった。一瞬、篁さんの声かと思っちゃったくらい。こんなに優しい時だってあるのに、なんであんなにいっぱい意地悪するんだろう……。
「いえ……あたしが、泣いちゃうのが悪いので」
 ようやく声を出せたけど、この涙腺弱いの、何とかしないと……。
「ま、泣ける内に泣いとくのがいいだろ」
 なに? どういうこと?
 鞄から出したハンカチで目を拭いて篠宮さんを見たら、さっきと同じ様な格好で煙草を咥えてた。あたしを見てふっと笑う。
「あいつは、ああ見えて結構手厳しいからな。覚悟して行け」
「……それって、もしかして研修のことですか?」
 せっかく考えないようにしていたのに。
「連絡は来ただろ」
「一昨日来ましたけど……、篠宮さんて、あの会社で何かお仕事してるんですか?」
 いくら知り合いだからって、こんなことまで筒抜けって、やっぱりちょっと変。
 篠宮さんは、例の意地の悪そうな顔になって、「そのうち分かるだろ」って言った。篁さんも、「会社で働いていればいずれ会うことになる」って言ってたけど、なんで二人ともそんな思わせ振りな言い方するのか、さっぱり分からなかった。
 
 

**********

 
 
 その後、クリスさんが篠宮さんを迎えに来て、あたしもついでに送ってやる、と言われて(勿論この言い方は篠宮さん)、今はクリスさんの運転する車の中。
 この前の車とは違って後部座席がちゃんとあって、あたしはそこに篠宮さんと並んで座ってます。内装が凄く立派で、こんな車、あたしには恐れ多いんだけど……。
 加奈子と里佳にはメールで知らせてある。『送ってもらうことになったから、先に帰るね』と書いたら『気を付けるのよ』って里佳から返って来た。何を気を付けるんだろう? 運転してるのはクリスさんで、そのこともちゃんと伝えたのに。
 もう10時をかなり過ぎてるのに、車は結構スムーズに走ってる。あそこの駅からあたしのアパートへは、タクシーを使っても20分くらいだから、もう5分くらいで着くかな。
「今日は付き合わせて悪かったな」
 腕時計を見ながらつらつらと考えていたら、急にそんな声が聞こえて、ちょっと驚いた。顔を上げて見たら、篠宮さんはドアに肘をついて、外を眺めてる。窓に映る篠宮さんの表情は凄く穏やかで、今ならちゃんと答えてくれるような気がした。
「あの……なんで、あたしを連れて行ったんですか? あたし、全然必要なかったじゃないですか」
「明日の朝一番の便で日本を発つ。その前に師匠の料理を食いたかった。店で話したろ」
「でも、あたし必要なかったですよ? お酒は美味しかったですけど」
「…………」
 返って来たのは沈黙。答えてくれるように思ったのは、やっぱり気のせいだったんだ。
 あきらめた気持ちであたしも、窓の外を見た。夜のネオンに混じって、あたしとは反対側を見ている篠宮さんの横顔も、薄くだけどガラスに映ってる。
「あそこの店であの時間、カウンターに座る客はあまりいない。一人でメシを食いたくなかったんだよ。付き合わせて悪かったな」
 独り言のような呟く声だったけど、車の中は静かであたしの耳にもしっかりと届いていた。
 まさか本当に話してくれるとは思ってなかったけど、ガラスに映る篠宮さんの顔を見ていたら、これ以上そのことを訊くのは悪いような気がして、話題を変えた。
「外国でお仕事なんですか?」
 へ、変な訊き方だったかな? 篠宮さんの顔が、ふっと笑うのが見えた。
「明日はイギリス。んで年越しはイタリアでだな」
「お仕事……ですよね?」
「ったりめぇだろうが。仕事でなけりゃ、誰が外国で年を越すか!」
 これはちょっと意外。お金持ちの人ってみんな、外国の暖かいところで年を越すと思ってたから。
 まだあたしのアパートに着かない。他に話題を探そうとして、マスターさんとの会話を思い出した。
「篠宮さんがバーテンさんをしてるところ、見てみたかったです」
 うわー! あたし、なんてこと言ってんの!? いくら話題を思い付いたからって、それはナイでしょ!!
「あ、ち、違くて! その、なんでバーテンさんにならなかったんですか?」
 もう恥ずかしくて、またしても下を向いてしまった。ホント、顔を上げらんないって、こういう気持ちのこと言うんだわ。今度こそ絶対に返事なんかない。両手で頬を押さえて、何とか気持ちを静めようと思ったけど全然ダメだった。
「ならなかったんじゃねぇ。なれなかったんだ」
 静かな声は、最初篠宮さんの声だとは気付かないくらいで。穏やかなのはさっきと一緒だけど、どこか昏い響きがあったのは、あたしが落ち着けなかったから?
 聞き返すという雰囲気でもなく、どうしたらいいか分からないところで、キッと車が止まってクリスさんが声を掛けてくれた。
「響子様、着きました」
「あ、ありがとうございます、クリスさん」
 運転席から降りたクリスさんが、わざわざあたしの方のドアを開けてくれた。自分で開けるつもりだったのに、クリスさん早い。
 チラッと篠宮さんを見たら、相変わらず向こうを見てる。表情は全く見えないけど、別に怒ってる感じもなくて、ちょっとホッとした。何も言わずに降りるのは失礼だから、思い付けるだけの言葉を言った。今度はなるべくちゃんと考えて。
「えっと……、今日はご馳走様でした。あの……お、お仕事頑張って下さい。えと、気を付けて行って来て下さいね」
 うわ〜ん、考えてもこの程度しか言えないなんて、あたしってやっぱりダメダメ。篠宮さんに鼻で笑われるのも無理ないよね。
 あんまりにも恥ずかしくて、クリスさんへのお礼もそこそこに駆け足で、すぐ目の前のアパートに向かう。走る必要もない距離なのに……。篠宮さんやクリスさんに見られてるのが、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、早く自分の部屋に行きたかった。
 もうちょっとで建物に入る時、急に腕を引かれて止められた。それがいかにも強引で、おっかなびっくり後ろを見たら、あたしの腕を掴んでいるのは篠宮さんだった。
「え……篠宮さん!? あの……な、なんですか」
 さっきのを絶対怒られるんだ。そのためにわざわざ追い掛けてきたんだ。なんで、こんなに意地悪なことするの?
「なんでってお前。あんな可愛いこと言われたら、手を出したくなっちまうだろうが」
「は!?」
 手を出したくなるってどういうこと?
 言われたことが分からなくて、ボケッと口を開けて篠宮さんを見上げていたら、篠宮さんが小さく吹き出した。すぐに大声で笑い出して、あたしはとっても恥ずかしくなって早くアパートに引っ込みたくなった。
「あ、あの……篠宮さん?」
「はははははっ、いや悪ぃ。くっくっくっ」
「全然悪いと思ってないんじゃないですか?」
「思ってるぜ。くっくっくっ、お前、そんなでよく今まで無事だったな」
「??? 無事ってなにがですか?」
 訊いた途端、顔を両手で挟まれて、グイッと引っ張られた。
 なにこれなにこれなにこれー!!
 く、唇が! 唇がぁ!
 き、き、キス!? キスされてるのー!?
 すぐに唇は離れて、でも至近距離に篠宮さんの顔があって、お酒と煙草の匂いがむせ返るようだった。
「あ、あ、あの」
「じゃあな。日本に戻ったらデートしようぜ」
 はあ!?
 訳の分からないことを言って、またキスされて、篠宮さんは唐突に離れていった。クリスさんが引っ張っているように見える。
 日本に戻ったらデート? なんで急にそんなことになってるの?
 っていうか、あたしのファーストキスが、まさかこんな形でなんて…………
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