Act.3 叶わなかった夢 ...2

 篠宮さんはあたしの手を掴んだまま、お店のドアを開けて入って行く。
 お店の中は照明が抑えられていて、ちょっと薄暗いけどシックな雰囲気を感じた。そんなに広いフロアじゃないけど、窮屈な感じがしない。カウンターに10 人くらい座れて、他にテーブルが20個くらい。テーブル席はお客さんで全部埋まってる。居酒屋みたいな煩さがなくて、みんな話をしていても静かだった。いつも飲みに行くのは居酒屋だから、こういうバーとかに入ったことはなくて、妙に緊張しちゃう。
 篠宮さんは慣れてるみたいで、あたしを連れて誰も座ってないカウンター席に着いた。カウンターの中にいるのは、中年の優しそうなおじ様。白髪の混じった髪をオールバックにして、口にも髭をたくわえてる。髭のある人ってあんまり好きじゃないけど、無精髭じゃないその人は清潔感があって、嫌な感じが全然しなかった。
 そのおじ様は、篠宮さんを見てニコッと笑った。優しげなお顔が更に柔和になって、見られていないあたしまで、ついつられて笑顔になってしまった。
「来たな、愁介。二月(ふたつき)振りか」
 意外に砕けた口調でちょっとビックリした。篠宮さんはちょっと笑っただけ。なんか、こういう表情初めて見るかも……。
「そちらのお嬢さんは」
 マスターさんがあたしを見て、ちょっと首を傾げるような仕草をした。
 ドキッ。あたし、どっか変になってるのかな。あ、立ってるから? 自分から篠宮さんの隣に座るのも何となく気が引けて、篠宮さんの後ろに立ってたんだけど……。
 おじ様は再びニコッと笑って、耳を疑うようなことを言った。
「就職は決まりましたか?」
「は!?」
 初対面だけど、大声で聞き返しちゃった。初対面だよ、この人とは。なんで!?
「覚えていらっしゃいませんか? 2ヶ月ほど前、当店にいらしたのですよ。あの時はかなり酔っておられましたが」
 うっ……2ヶ月前で酔ってるっていったら、あの、篠宮さんのホテルで目が覚めちゃった、あの時のではありませんか! しかもあたし、無銭飲食しちゃったよね!?
「あ、あの! あの時はすみませんでした、あたしお金払ってなくて」
 恥ずかしくて顔が真っ赤になるのが分かったけど、気にしてなんかいられなかった。一生懸命頭を下げて謝った。もう自分が何を言ってるか、よく分かんなくなっちゃったけど、とにかく無銭飲食したのを謝って、踏み倒しちゃってた分を払いたかった。
「あの……今更謝っても遅いかもしれませんけどあたしちゃんと払いますから」
「もう頂いていますよ」
「は!?」
 鞄からお財布を出そうとして、またしてもあたしは大声を出してしまった。きっと今のあたしは、すんごく間抜けな顔をしておじ様を見てるはず。口が開いてるの、自分でも分かるもの。
「こいつから頂いていますから、気にしなくても大丈夫ですよ、お嬢さん」
 そのおじ様が笑いながら指差しているのは、篠宮さんだった。あたしからは背中しか見えないけど、肩が揺れてるのは笑ってるんだ。
「座れ」
 篠宮さんの左隣を指差され、あたしは中途半端に出していたお財布を鞄にしまって、気まずい思いでそこに座った。
「くっくっくっくっくっ……」
 まだ笑ってる。そんなに笑わなくてもいいのに……、やっぱり篠宮さんは意地悪だ。
 恥ずかしくて顔を上げられずにいたら、横からパシンという音がした。同時に「いてっ」っていう声も。
 そっと音をした方を見てみたら、篠宮さんが憮然として頭をさすっていた。
「年下の女の子を相手に、大人気ないことをするんじゃない。愁介」
 まるで子供に言い聞かせるような言い方で、ついプッと吹き出しちゃった。さすがに、後が怖いから声を出しては笑えなくて……でも我慢は出来なかったから、両手で口を押さえた。体は、笑いにつられて揺れちゃった。
 そうしたら横にいる篠宮さんが、またムスッとした声で言った。あたしには背中を向けるようにして頬杖をついているから、顔は見えないけど、こんな篠宮さんは初めてでビックリした。
「師匠のせいで笑われた」
「女の子を笑うお前が悪い。もう30になるのだろう、少しは気遣いというものを覚えろ」
「まだ29だ」
「揚げ足を取るな。まったく、いったい何をしに来たのか」
「メシ食いに来た。あと酒」
 ぶっきらぼうな言い方に呆れるおじ様は、溜め息をついて首を振ったけど、その顔は何だか凄く温かい感じがした。篠宮さんがこんな態度をするの初めて見るし、ちょっと微笑ましかった。笑ったらまた何を言われるか分かんないから、黙っていたけど。
「お嬢さんは何にしますか? ……ふむ、いつまでもお嬢さんでは悪いですね」
「あ、あたし、島谷響子といいます。その……この前は酔い潰れてしまって、すみませんでした」
 ちょっと腰を浮かせて頭を下げた。あの時のあたしが、何を話したのかすっごく気になってるけど、ここで訊くのも恥ずかしい。
「私は岡崎隆史です。この小さなバーの店主ですよ、よろしく」
「店主って、マスターさんですか?」
「そうですね、皆さんそう呼んで下さいます」
「自己紹介はもういいだろ、師匠。早くメシ」
 あたしとマスターさんが和やかに話していたら、いつの間にか煙草を吸っている篠宮さんが、不機嫌そうに横槍を入れてきた。でもマスターさんは、さっくり無視しちゃってる。
「響子さんは、何を召し上がりますか?」
 その無視の仕方が、何かホントにさくっとしていて、あたしまで便乗してしまった。
「あたしはさっき友達と食べてきましたので、ご飯はいいです。お酒を頂いてもいいですか?」
「ははは、響子さんはお客様ですからね、そのような遠慮は無用ですよ。お奨めのウォッカがありますが、お飲みになりますか?」
「はい!」
 カクテルでなくウォッカを出してくれるお店なんて、そうそう滅多にない! あたしは勢いよく返事をして、ふと気付いた。
「あの……なんであたしがウォッカが好きって、ご存知なんですか?」
「ご自分でお話しておられましたよ。覚えていませんか?」
 お、覚えてません……。
「女子がウォッカを生で飲むなんて、恥ずかしいからやめろとご両親から叱られた、とおっしゃっていましたよ」
 ひえーーー! そんなこと言っちゃってたんですか!?
「師匠、早くメシ」
「あ、あの! 他に何か変なこと言ってませんでしたか!?」
「この時期になっても就職が決まらなくて、もう嫌だ、ともおっしゃっていました」
 ぎぇーー!! そんなことまで……あたしもう、マスターさんと顔合わせられないよう!
 頭を抱えたい思いで下を向いていたら、視界にコースターと小さなグラスが置かれるのが見えた。その横にはナッツの入ったお小皿。
 早っ! マスターさんずっとあたしとしゃべっていたのに、いったいいつ淹れたの!?
「どうぞ、ストリチナヤのクリスタルです」
 こ、このちっちゃいグラスはもしや!
「あの、この小さいグラスは、ショットグラス……ですか?」
「はい。ストレートでお飲みになられるお客様には、通常このグラスでお出ししております」
 うわ〜ん、こういうショットグラスでウォッカとか飲むの、憧れだったのよね!
「師匠、だから早く俺のメシ」
「ありがとうございます! あたし、こういう風に飲むの、夢だったんです!」
 八分目くらいまで透明な液体の入ったグラスを持ち上げて、口元に近づけた。おおっ、強烈なアルコールの香り。
 くいっとグラスを傾けて飲むと、強いけど香りが良くてすっきりした味わいが口の中に広がった。飲み込むとちょっと甘い感じもする。
「うん、とっても美味しいです!」
「お口に合ってよかったです。ウォッカをそのように飲まれる女性は初めてですよ。お強いのですね」
「あははっ、ちょっと恥ずかしいですけど。あたしお酒の味が好きなんです」
 照れ隠しのつもりで笑ったら、マスターさんも穏やかに微笑んでくれた。飲み会でこういう飲み方すると、大抵は引かれちゃうから、ちょっぴり嬉しかった。
「しぃしょぉおっ」
 隣りから唸る様な声が聞こえて、そういえば篠宮さんをずっと無視しっ放しだったことに気付いた。
「響子の酒より俺のメシを早く出せ」
 カウンターに身を乗り出して、握った拳で今にもカウンターを叩きそう。今日は篠宮さんの色んな顔が見られる日だなぁ、なんてぼんやり思っているあたしは、なんかあたしらしくないと思った。
「腹減ってんだよ。どうせすぐクリスに見付かるだろうが、日本を発つ前に師匠の手料理が食いてぇの!」
 タンッと軽くカウンターを叩いたところで、篠宮さんの前にコースターと、氷の塊が一個入ったロックグラスが置かれた。そこに琥珀色のウィスキーが注がれていく。マスターさんが持っているボトルには、EARLYTIMESのラベル。
「相変わらず忙しいのか。体は大丈夫だろうな?」
「見りゃ分かるだろ」
 ちょっとやさぐれた様子で、篠宮さんがグラスを呷ぐ。ダブルは十分に入ってたと思うけど、ウィスキーは一息で飲み干されてしまった。お酒を飲んでるってことは、今は会議中じゃないんだ。
 マスターさんは、空になった篠宮さんのグラスに、同じお酒を注いで言った。
「用意してくるから、しばらく待っていろ。響子さん、ごゆっくりどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 ペコッとお辞儀したら、微笑んで会釈を返してくれた。それからお店の奥に引っ込んでしまった。入れ替わるように、ボータイをした若いバーテンさんが、カウンターの中に入る。
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