Act.2 これがあたしの進む道?...8

 お、落ち着かない……。
 篠宮さんと話していたソファに座っているあたしの前には、同じようにソファに座って優雅にお茶を飲んでいる、あの美人さん。
 垣崎さんは、なんだか声を掛けるのが怖いくらいの雰囲気で、すぐに帰ってしまった。お仕事が忙しいのかな?
 こんな美人とこんな広い部屋に二人っきりなんて、心細い。
「そんなに硬くならなくていいのよ。ほら、リラックスして」
 ソファのある部屋に入るなり、美人さんはそう言ってあたしの両肩を、ポンポンと軽く叩いてくれた。嫌な叩き方じゃなかったけど、なんでこの人がいるのか? とか、篠宮さんが頼んだって言う人はこの人だったのか? とか、頭の中でぐるぐる考えていたから、リラックスなんてとても出来なかった。
 そんなあたしの前で、美人さんは新しくお茶を淹れてくれた。
 さっきクリスさんが淹れてくれたタンポポのお茶とは違って、今度のは飲んだらスゥッと気持ちが軽くなるような、清涼感のある不思議な味のお茶だった。

 
 

「あ、あのぉ、あなたは……?」
 気持ちが落ち着いたところで、思い切ってあまり失礼にならないように訊いてみた。
 美人さんは、ちょっと怪訝そうな顔であたしを見てる。
「あら? 愁介さんから聞いてないの?」
 ニコッと優雅に微笑まれて、あたしは狼狽えてしまった。
「あ……は、はい……すみません」
「うふふ、あなたが謝ることはないでしょ。ちゃんと話していない、愁介さんが悪いんだもの」
 そう言って、持っていたティーカップとソーサーを静かにテーブルに置いて、鞄の中から薄いカードケースみたいな物を出した。
 その一連の仕草がとても洗練されてる感じがして、何だか自分が貧弱な人間に思えてきた。
「どうしたの? 思い詰めたような顔をして。さっきも言ったでしょう。もっとリラックスしなきゃ、今のご時世じゃ疲れてしまうばかりよ」
 あたしは俯いてその言葉を聞いていた。そんな風に考えられたら、きっと加奈子や里佳が言ってくれるみたいに、自信のあるあたしになれるんだろうな……。
 そんなことをぼーっと思っていたら、白い何かが視界に入ってきた。
「私の名刺よ。もし今後も何か困ったことが起きたら、遠慮せずに連絡して」
「はぁ……」
 受け取ったそこに記してあったのは……
「臨床心理士? 森沢心療内科クリニック所長……」
 森沢碧さんという名前のその人は、「ええ、よろしくね」と言って笑った。あたしはその名刺を見て、少なからずショックを受けた。
 あたしの卑屈な性格って、病気だったの!?
「どうしたの? 大丈夫?」
「あの……あたし病気なんですか?」
 意を決して訊いたのに、その人……碧(みどり)さんはキョトンとした後、クスクス笑い出した。
 あたしは自分の顔が真っ赤になっていくのが分かって、泣きそうになった。まさか、こんなに笑われるなんて……。
 知らない内に目から涙が零れていて、目を瞑って泣いていた。こんなことで泣いちゃう自分が情けなくて、泣き止もうと思っても止まらない。
 膝の上で拳を握っていた両手に、温かい感触がした。
 目を開けて見ると、碧さんが隣に座っていて、あたしの手を包み込むように両手を添えてくれていた。
「ごめんなさい、泣かすつもりで笑ったんじゃないのよ」
 優しい声が耳元に響く。それだけで気持ちが落ち着くような気がする。
「……違うんです……うっ…あたし……あたしが情けなくて」
「大丈夫よ。情けないことなんてないわ。誰でも不安に思うことはあるし、泣いていけないことなんてないのよ」
 碧さんの手が背中をそっと撫でてくれる。なんかお母さんみたい。
 それから、あたしの頭を抱くようにして後頭部に腕を回して、優しく抱きしめてくれた。あったかい……そう言えば、お母さんにこんな風に甘えたの何年前だろう?

 
 

 いつの間にか、碧さんに優しく背中を叩かれていて、恥ずかしくなって慌てて上体を起こした。
「あっあの! すみません! すっかり甘えてしまって!」
「あらあらっ、もっと甘えてくれてもいいのよ?」
 碧さんは笑って言ってくれたけど、ただでさえお世話になる人に、これ以上迷惑は掛けられなかった。
「い、いえっそんな訳にはっ!」
「うふふ」
 み、碧さんの笑顔が怖いです! 篠宮さんみたいな意地の悪そうな笑顔じゃなくて、心から微笑んでくれてるって分かるんだけど。だからこそ、何を考えているのか分からない感じがして。
「うん? なぁに?」
 碧さんが小首を傾げて訊いてきた時、あたしは少しずつ碧さんから距離を置くように、体をずらしていた。
「そ、そのぉ。な、何をすればいいんですか?」
「うーん、そうねぇ。じゃあ少しお話ししましょうか」
 そう言えば、篠宮さんもここを出て行く時に、そんなこと言ってた。
「あの……そんなことでいいんですか?」
「うふふ、心配?」
 ニコッと訊かれて、あたしはちょっと怯んだ。お、女の人なのに見惚れちゃった。ホントに綺麗な人なんだもん。
「心配って言うか」
「そんなことでって思う?」
「あ……はい」
「ふふっ。そうね、じゃあ……」
 そう言って碧さんはあたしを見て、首を傾げた。まるで心の中を見透かされるような錯覚がして、あたしはちょっと居心地が悪くなった。
「な、何ですか?」
「うん、あなたやっぱり綺麗な顔をしているわぁ」
「はい!?」
「あの時も思ったけど、愁介さんはやっぱり目が高いわね」
 ニッコリ笑ってそんなことを言われて、平静でいられる人はいないと思う。しかも言ったのが、これこそ正統派美人と言える人なんだから。
「そ……そんなことありません。あたしなんて路傍の花ですから」
 膝の上で両手を握って、あたしは俯いた。
「ふむ……」
「?」
 な、なに?
 上目遣いでそっと見てみた。碧さん、腕を組んでから、左手を頬に当てて何か考え込んでるみたい。
「あの……何ですか?」
「うん、……愁介さんから大まかなことは聞いていたけれど。これほどとはね」
「え?」
「ちょっときて」
 碧さんがあたしの腕を取って、連れて行かれた奥の部屋……何故に寝室? と思う前に、あたしはそこを見て、めまいがしそうになった。まるでお姫様の部屋みたい。天蓋が付いてるベッドなんて、初めて見た!
「ここは女性専用の寝室なの。隣りに男性用、更に奥にはダブルのベッドがあるわ」
「く、詳しいんですね」
「うふふ、私はここをよく使わせて貰っているから」
 艶然と微笑む碧さんは、篠宮さんとどんな関係なんだろう? なんか、今のを聞いたら妙に気になってきちゃった。

 
 

「さぁ、こっちに座って」
「? はぁ」
 碧さんが手招きしてくれたのは、広いドレッサーのあるところ。そこには大きな鏡がある。
 あたしが訳も分からずドレッサーのソファみたいな椅子に座ると、碧さんも隣りに座った。
 鏡に映る、あたしと碧さん。なんか…いたたまれなかった。こんな美人さんと並ぶなんて、あたしなんかには勿体無い。
「うふふ、響子さんと私が映っているわね」
「は、はい」
「あら、そんな風に俯いたら見れないでしょう? もっと顔を上げて」
「で……出来ません」
「あら、どうして?」
「だって……」
「うん?」
「…………」
「自分は路傍の花だから?」
 碧さんに言われて、あたしは黙って頷いた。すぐに隣りから静かな溜め息が聞こえて、あたしはますます縮こまった。
「ねぇ響子さん」
 優しく声を掛けられても、却って申し訳なく思ってしまう。
「……はい」
「私のことは、どう思う?」
「え? どうって……」
 訊かれたことの意味が分からなくて、碧さんを見た。
「美人だと思う? それとも不細工?」
 な、何をいきなり訊いてくるの!?
「み、碧さんは綺麗です! とっても美人さんです!」
 こんな人を不細工だなんて言える人、絶対いないよ! 思わず力んで言ったら、碧さんは困ったような微笑みを浮かべてあたしを……鏡の中のあたしを見た。
「そうよねぇ、審美眼はちゃんとあるのに、どうしてあなたは自分の顔だけ、ブサイクと思っているのかしら……」
「ぶ、不細工とは思ってませんけど」
「けど?」
「そんなに美人じゃないです。加奈子……親友ですけど、彼女たちは美人だって言ってくれますけど、あたしはぜんぜん……」
「ふーん?」
 碧さんのその言い方が、どこか突き放した感じに聞こえて、すごく不安になった。あたし、自分が思うままに言ってるだけなのに。
「どうしてそう思うの?」
「え? あの……は、母に昔から言われていたので」
「どんな風に?」
「響子は美人だけど、世の中にはもっと綺麗な人がいっぱいいるんだから、いつも謙虚な気持ちを忘れないようにしなさいって。それはあたしもちゃんと分かってます。あたしよりもずっと綺麗な人は、いっぱいいますから。あたしなんか、そこら辺の花くらいの存在なんです」
 他の人にこのことを言ったのは初めて。加奈子にも話したことないのに……。だからなのかな、なんとなく恥ずかしくなって、あたしはまた下を向いた。
 でも、すぐに細くて優しい手が、ゆっくりと頭を撫でてくれた。驚いて顔を上げると、碧さんのニッコリ笑った美顔が目の前にあって、更に驚いた。
「……碧さん?」
「安心したわ」
「はい!? なにがですか?」
「あなたが、自分のことをちゃんと美人だと自覚してくれていたから」
「…………。ど、どういうことですか?」
 しばらく唖然としてから、ようやく声を出せた。碧さんは、相変わらず艶然と微笑んでる。
「私から見たら、あなたは私の知っている誰よりも綺麗な人なのよ。でも、信じられないでしょう?」
「ええ!? と、とんでもないです! あ、あたしなんか、め、滅相もありません!!」
 慌てて目を瞑りながら手を横にブンブン振った。そんな恐れ多いこと、もう言わないで下さい!!
「うふふ、世の中にはね、他人のことはよく分かるのに、自分のこととなるとおかしなくらい鈍感な人が、結構いるものなのよ。あなたもそう。自信過剰になってしまうのは困るけど、適度な自負心は必要なものよ。特に、あなたがやろうとしている仕事に関してはね」
 ドキッとした。秘書なんて、あたしにはとても出来るはずないって思っていたから。
「どうしたの?」
 碧さんの表情が急に曇った。
「あの……」
「なあに?」
「今あたし、顔に出てました?」
「秘書の仕事なんて、とても出来ませんって?」
 やっぱり! 顔に出てたんだ……。
 もう恥ずかしくっていたたまれなくて、あたしは本当にここから逃げ出したくなった。
「うふふ、気持ちが表情に出てしまうことなんて、そんなに気にすることないわよ。訓練すれば、そういうことはなくなるわ」
「あたし、そんなこと出来ません」
「あらあら、どうして?」
 だって……そんなこと、あたしが出来るとは思えないんだもん!
 言いたくても言えないその言葉を飲みこんで、下を向いたあたしの肩を、やさしい手がさすってくれた。
「自分で自分の限界を決め付けてしまうのは、よくないわ。あなた自身の持つ可能性を、自分から潰してしまっているのよ?」
「でも、あたしっ」
「怖いと思うのは、誰でも同じ。でも、それを乗り越えなくちゃ。社会に出るって、そういうことなのよ。いつまでも子供のままではいらないの。たとえ秘書でなくても、経理や事務だって、どんな仕事でもそれは同じよ」
「どうしたら、いいんですか?」
「自分のことを路傍の花だなんて思うのは、もうやめなさい。高嶺の花と思え、とは言わないわ。私は、十分にその資格はあると思うけどね。美人に生まれ育ったことも、才能の一つなのよ。そうは思えない?」
 碧さんの声は優しい。こんなあたしに呆れたりしないで、ちゃんと話してくれてる。そう分かるのに、あたしはどうしても「うん」とは言えなかった。ただ、黙ったまま俯いているだけ。こんなんじゃダメって分かっているのに。
「うふふ、急にそんなことは出来ないのは、ちゃんと分かっているわ。だから、少しずつ学んでいきなさい。まだ10月でしょ。大学を卒業して仕事をするまでに、あと半年近くもあるわ。せっかくいい見本が近くにいるんだから、この機会に学ばない手はないわよ」
「え? 見本……って」
「愁介さんに決まっているじゃない」
 碧さんが笑って言った。まさかと思ったけど、篠宮さんの名前が出て来るなんて、思ってもいなかった。
「ちょうどいいわ。今日、これから愁介さんに連れて行ってもらいなさいな」
 碧さんが何か思い付いたような顔で言ったけど、よく分からなかった。
「え……はい!? な、なにをですか!? あ、ど、どこにですか!?」
「生まれ持った性格なんて、本当はないの。環境によって、それはいくらでも変えることが出来るのよ。あなたが自分に自信を持てるような、高嶺の花になれるような場所によ」
 開いた口が塞がらないって、きっとこういうことだ。あたしは、本当に何も言えずに口を開けたまま、楽しそうに話す碧さんを見た。そうしたら、碧さんもあたしを見たからドキッとした。
「あ、そうそう。忘れない内に教えておくわね」
 そう言って、また鞄の中からさっきとは違うケースを出した。
「はい、これ。私のもう一つの名刺」
「もう一つ……ですか?」
 不思議な思いでそれを受け取ったら、私が受けた会社の名前が書かれていた。肩書きは、やっぱり臨床心理士。
「え!? 碧さん、あの会社にいるんですか?」
「ええそう。週に2日だけど、あそこで出張診療をしているの。あの時あなたと会ったのは、ちょうどその日だったからなのよ」
「そ、そうだったんですか……」
「秘書になって何か相談事があったら、遠慮なく来てね。どんな些細なことでも構わないから、話すと楽になることもあるし」
「あ……はい」
 あたしはもらった名刺をジッと見た。少しだけ、少しだけだけど、碧さんがいるなら大丈夫かなって思った。
感想・誤字報告を兼ねた拍手ボタン ←感想や誤字報告などありましたら、こちらをご利用下さい。