最終話

 10年総帥をやったら辞めると言っていた愁介は、周囲からの希望と後継者が見付からない物理的理由で、簡単に辞めることは出来なかった。
  5年掛けて愁介を見付けたというセシルさんの言葉は誇張でも何でもなく、実際これだけの権力と財力と地位を預けられる人間というのは、容易に見付かるものでもないみたい。
 彼が総帥の責務から解放されるのは、実に20年という期間を経てのことだった。
 引退して一年、荷物はスーツケース一つという身軽さで、私たちは久しぶりに日本の地を踏んだ。
「ったく、とっとと辞めるはずが、もう50のジジイだぜ」
「まだ47歳でしょ。それにジジイなんて言ったら、世の中の50歳に怨まれるわよ」
 本当に、こういうところは昔と全然変わらない。息子も一人いるというのに。
 引退したとはいえ、エインズワースでの愁介の力は絶大で、それは二代目のセシルさんをしのぐほど。彼専用のプライベートジェットも自由に使えるし、これはまだまだ活躍しそうね。
 一人息子は、スウェーデンの学校に留学中。何故スウェーデンかといえば、レオンの出身地だから。彼の秘書として大活躍したレオンは、総帥が引退するまで職務を全うした珍しい例となった。
 息子はその彼をいたく尊敬していて『レオンのような男になるんだ』と言い、まだ小学生の身で単身スウェーデンへの留学を決めて、さっさと行ってしまった。その決断と行動の早さには脱帽で、昔の愁介を思い出すようだわ。まぁ、単身と言ってもお目付け役はちゃんといるから、そんなに心配はしていない。
 愁介はどこにいても衆目を誘う。四捨五入すればもう50歳という年齢なのに、そうは見えない若々しさと格好良さがあるからなのか、女性の目線は彼に集中砲火。別にそんなことくらいでヤキモチは焼かないけれど、そんな彼は私と一緒にいると必ず肩や腰に手を添えるので、必然的に私にも視線が集まってしまう。
 空港のロビーに立っている今もそう。壁際にいるというのに、何故か通りすがる人々の多くが、私たちへと視線を向ける。彼の手が私の腰を抱くようにしているから、どうしても体が密着してしまうけれど、今日日男女のこんな姿は珍しくもないでしょうに。
「ところで、これからどこに住むつもり?」
 篠宮の屋敷は、もう随分前に愁介が篁さんに管理を押し付けていて、ここ10年ほどは高級宿泊施設として使われている。愁介の口から「実家に戻る」という言葉を聞くことはついぞなく、篁さんもその辺は心得ていたんでしょう。お屋敷で働いていた使用人や執事たちは、そのまま従業員として雇われ『セレブな気分を味わえるお屋敷』として、今では女性客に人気の宿泊スポットになっていた。
「とりあえずマンションを買う」
 あっそ。どこでも私は付いていくけどね。とりあえず……と言ってポンとマンションを買える人間が、世の中にどれくらいいることか。その辺の自覚は、あまり彼にはない。とはいえ、今日買ってすぐに住めるはずも無いから……
「先ずはホテルに行きましょう。マンションを買うとは言っても、当分の住む場所は必要だわ。垣崎さんも心待ちにしているわよ」
 愁介がオーナーのあのホテルは、今も垣崎さんが総支配人として切り盛りしている。彼の主義には反するけれど、ここは頼ってしまいましょう。
「それに、落ち着いたらあのホテルでバーテンダーやるんでしょ?」
「当然だろ。そのために日本に帰って来たんだからな」
 そうよね。私がお酒を飲みたい時には、必ずカクテルを作ってくれていたもの。
「じゃ、いいわね」
 すぐに垣崎さんに連絡を取ると、部屋は空いているという。
「でかい部屋はいらねぇぞ」
 という彼の言葉に従って、用意されたのはスタンダードなスウィートルーム。降り立った羽田空港からタクシーに乗ってお台場に向かった。
 車窓から見る懐かしい東京の風景は、知っているものとは様変わりしているところもあるけれど、やっぱり日本だなと思う。
 タクシーの中でも彼の腕は私の肩に回され、座る位置もやや密着気味。時折私に熱い視線を送ってくるのは、つまりその気になっているということ。とりあえず、タクシーの中では自重してね。
 橋の上からお台場が見えた頃、バッグの中の携帯が鳴った。開いてみると、加奈子からの着信だった。イギリスに住んでからも、加奈子と里佳とはパソコンのメールで連絡を取り合っていた。でも、声を聞くのは2年ぶりのこと。私たちの結婚披露宴を日本でやってからは、年に一度くらいしか会いに来てなかったから。
「もしもし、加奈子?」
『久しぶり、響子。こんなに早く繋がるということは、日本に帰って来たんだね?』
「うん、今お台場のホテルに向かっているところよ」
『おお、懐かしい! あそこ未だに人気のホテルだよ。一般家庭の主婦には、高嶺の花だけどね』
 昔と変わらない加奈子の声。懐かしさがこみ上げてくる。
「ふふ、また里佳も交えてお泊り会でもする?」
『いいねぇ! 里佳も喜ぶよ。とりあえず近い内に会わない? 私は昼間は暇だけど、里佳は今も働いているからさ、日曜日にでも』
「そうね。多分大丈夫よ」
『じゃ、また連絡するよ。旦那さんによろしく』
 愁介のこと「旦那さん」ですって。彼のことをそんな風に言うのは、加奈子だけよ。
 パクンと携帯を閉じてバッグに入れると、肩に置かれていた彼の手が腰に落ちてきて、体を寄せられた。
「きゃ、愁介? んっ」
 ちょっと、タクシーの中でディープキスって、なに考えてるの!? 彼の背中をバシバシ叩いて、ようやく解放された。
「ちょっと、何するのよ」
「電話で楽しそうに話す響子にムラっときた」
「バカ!」
 正直なのはいいことだとしても、臆面もなく口にするってどうなのよ! 普段からこんなだから、息子からは「思春期の息子の前で、いい歳していちゃつくな」なんて言われちゃうのよ。単身留学した理由の一つって、これもあるんじゃないの?

 
 

 ホテルに着くと、急な連絡にも関わらず、垣崎さんは部屋を準備して待っていてくれた。
 ロビーで出迎えてくれた垣崎さんの横には、中年の男性が礼儀正しく立っている。新しい支配人とのことで、この機会にオーナーにお目通りしておこうということらしい。
 部屋に案内してくれたのは垣崎さん。それはもう嬉しそうに相好を崩して、これまでホテルで起きたことを簡単に説明してくれた。もう70歳になるご高齢だけど、腰はピンと伸びているし、歩く足取りもしっかりしている。元気そうで何よりだわ。
 通されたスウィートルームは、東京湾が一望出来る開放感のある部屋。窓の近くに寄って外を眺めていると、懐かしさがこみ上げてくる。
 いきなり彼に後ろから腰を抱かれてた。
「ったく、外ばっかり見てんなよ」
「ふふ、景観にヤキモチ?」
「そう思いたきゃ思ってろ」
 立ったままキスをされ、そのまま近くにあったソファに座らされ、押し倒される。甘く深いキス。彼の手が胸や太腿をまさぐり始める。
「ねぇ、ベッドに連れて行って。ソファはさすがにもう体がつらいわ」
「しょうがねぇな」
 そう言いつつも、私を抱きかかえて寝室へと運んでくれる。
「ねぇ、気付いた?」
「なにがだ?」
 ベッドに横たえた私にのしかかる様に、全身で抱きしめてくれる彼。耳元に吐息が当たり、ゾクリとしびれた。
「この部屋、私が酔い潰れた時に愁介が運んでくれた部屋よ。垣崎さんの粋な計らいかしら?」
「ああ、ここはこのフロアで一番眺めのいい部屋だからな。もう垣崎の話はよせよ」
「はーい」
 それから日が暮れるまで、時間を気にする必要も無く、誰に邪魔されることのない甘い時を、私たちは初めて過ごした。

 
 
...Fin.
 
 本編はこれで終わりますが、その後の物語は「Thereafter story」にて、少しずつ語られていきます。
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