未来への邂逅 1

「ねぇ、お兄さん。あたしを買わない?」
 少し舌っ足らずな声で話し掛けられ、透は足を止めた。ヒッピーの真似をした若者たちがひしめく渋谷。夏休み真っ只中、8月の東京は例年になく蒸し暑い。今宵も太陽は完全に眠った時間にも関わらず、気温は30度近くを保っていた。
 夏の夜は虫の音を聞いて涼む、などという風流なことを楽しめたのは、ほんの100年ほど前のことだと言うのに。
 誰もが「暑い、暑い」と連呼する中で、透だけは一人涼しい顔で黒い服を着て歩いていた。夜のこの人ごみでも、その独特の雰囲気は際立っている。
 透は自分を呼び止めた女を見た。まだ高校生ほどにしか見えない、どこか幼さの残る顔を化粧することで、3〜4歳は老けて見せている。少女と言ってもいい彼女は、慣れた様子でするりと透の右腕に自分の腕を絡めてきた。
「お兄さん、ご飯たべさせてよ。そしたら、その後一晩あたしを自由にしていいからさ。カラオケボックスだったら安いし、いいでしょ?」
 薄いTシャツにノーブラ、生足のミニスカートでミュールをはいている。媚びるように上目遣いで見上げ、絡んだ腕に胸を押し付けてくる少女を、透はしばし見つめて微笑を浮かべた。
「ホテルなら構わんがどうする? 俺はカラオケボックスは嫌いなんだ」
 すると少女はビックリした顔で「え? ホテルって高いよ? いいの?」 と訊いた。
「たかっているのはお前だろう。変な心配をするんだな」
「だ、だって、お金出してもらわなきゃいけないんだもん。高いところに入って、結局お金がないなんて言われちゃたまらないわ」
 渋面で話す少女に、透は感心した表情で笑った。
「なるほど、一理あるな」
「ね、安いトコでいいからさ」
 覗き込むように伺いながら、少女は透の腕を引いた。
「いいだろう」
 透の返事に嬉しそう表情を見せ、少女は腕を絡ませたまま、誘導するように人ごみを歩いていった。

 

 着いた先は、渋谷にあるラブホテルの一室である。
「ねぇ、あたし待ってるからさ、お兄さん先にシャワー浴びてきなよ」
 思わせぶりに言う少女の肩に触れ、透は静かに言った。
「お前がシャワーを浴びてくるといい」
「そう? 黙って出てっちゃダメだからね!」
「分かっている」
 透が頷いてもまだ信用出来ないのか、少女は彼に視線を向けつつ、バスルームへと入った。それを見届け、彼は小さな窓から眼下の通りを見下ろす。暫し思案した透は、備え付けのメモ用紙にサラサラと走り書きをして、そっと部屋を出て行った。
 バスローブ姿の少女が思いの外さっぱりした表情で、長い髪をタオルで乾かしながら出て来ると透の姿はなく、怒りに満ちた顔で持っていたタオルを床に叩きつけた。
「ちくしょー! やられた! ガキだと思って舐めやがって! くっそ、あんな奴引っ掛けちまって、どーすんだよ今夜のメシ!」
 ひとしきり怒鳴って、ようやく枕元のメモに気付いた。
「ちぇ、何だよこんなの!」
 その紙切れに目を通した彼女は、クシャクシャに丸めて壁に投げ付ける。
「何が食べ物買ってくるだよ! どうせとんずらこくに決まってんだ! 誰もあたしなんか、マジで相手にしたりしないんだ!」
 一人怒鳴っていた少女の顔が、急に寂しげに歪み、涙がポロッとこぼれた。
「どうせあたしなんか、みんなに嫌われてんだ。行きずりの男だって、こんな紙切れ一枚で逃げやがって。……ひっく、何で? 何であたし、こうなんだよぉ。どうして信用してくんないんだよぉ!」
 床に座り込んで泣き叫ぶ少女の耳に、ドアの開く音が聞こえた。
 驚いた顔で少女がドアを振り返ると、コンビニの大きなポリ袋を下げた透が後ろ手にドアを閉めたところだった。涙と鼻水にまみれた彼女の顔を見て、溜め息混じりに言う。
「メモを置いて行っただろう。見なかったのか?」
 そう訊かれ、少女はばつが悪そうに涙に濡れた視線をそらせる。
「だ、だって」
「そうやって騙された経験があるのか」
「ふんっ! あたしは頭悪いからさ! 簡単に騙されちまうんだよ」
 腐る少女の頭に右手を置き、透は優しく撫でる。途端に荒々しく引っ叩かれてしまった。
「何すんだよ!」
 強く叩かれても透は怒ることもなく、持ってきた食料を小さなテーブルに置き始めた。おにぎりやサンドイッチ、菓子パンなどが並び、それを見て少女はゴクッと唾を飲み込んだ。
「好きなだけ食べるといい」
「な、何だよ! 食事っつったって、しけたもんばっかじゃねぇか! バカにすんなよ!」
 怒鳴られても、透は気分を害した様子はなく、深い闇色の瞳を少女に向けた。
「下手にファミレスなどに入るより、よほどいいかと思ったんだがな。腹が減っているのだろう? 人の目を気にせず、食べられるぞ」
 ぐっと言葉に詰まった少女は、憮然としながらおにぎりの一つを手に取った。パッケージを開けるや否や、がっつく。あっという間に一つを食べ終えて、次のおにぎりを手に取る。
 透はポリ袋からお茶のペットボトルを取り出し、キャップを開けてテーブルに置く。すぐさまそれを手にした彼女は、口の中のおにぎりをお茶で飲み込んだ。その様子を目を細めて眺めていた透は、少女が仏頂面でサンドイッチを差し出してるのに気付いた。
「あ、あたしだけ食べて悪いじゃん!」
「お前のために用意したのだ。俺が食べては意味が無い」
「そのあたしがいいって言ってんだから!」
 顔はむくれているが、要するに気を遣ってくれたのだ。そうと分かっても、透は首を縦には振らなかった。
「気持ちはありがたいが、所詮は死んだ生き物たちだからな。俺の糧にはならん」
「なに訳の分かんないこと言ってんだよ? あんた、もしかして変な宗教?」
 あからさまに怪しげな目を向けてくる少女に、透は軽く苦笑を浮かべた。
「どう捉えても構わん。お前に食べられるために用意したものだ」
「まぁ、よく分かんないけど、要らないってんなら遠慮なくもらうよ」
 透の言葉に不審を抱きつつも空腹には変えられないのか、少女は透に差し出していたサンドイッチに手を伸ばした。

 

 10個もあったおにぎりは全部なくなり、サンドイッチも菓子パンも全て少女の腹の中に納まった。少女は満足そうな顔でペットボトルのお茶を飲んでいる。
「腹一杯になったか」
「うん、ごち! あんたの言う通り、これで良かったよ」
「それから日持ちする物も用意してある。今後に役立てばいいが」
 そう言って、カロリーメイトやクラッカーなどが入った袋を彼女に渡した。受け取る少女は、絶句している。
「な、何でこんなもんまで」
「家出でもしたのだろう? 食料はあって邪魔になる物ではない。持っているといい」
「な、何でだよぉ。あたし、こんな」
 こんなことをされたことはなく、されるような人間でもない。そう言いたかったのだが、半分は嗚咽に隠れて聞き取ることは出来なかった。
「では、ベッドに寝てくれるか?」
「は?」
 感動にむせいでいた少女は、透の要求に言葉を失った。困惑し固まっている少女の体を、透は何の躊躇も無く軽く押し倒し仰向けにさせる。
「ふん、何だよ。あんたもその辺の野郎と一緒かよ! いいぜ、さっさとやんな。どうせそのためにホテルに連れ込んだんだろ!」
 さっきの感動を返せっ! そう言い放ち、少女は自らバスローブの紐を解いて肌蹴させた。ついでに膝を立てて足も広げてやるが、透はただ静かに右手の平を少女の下腹部に置いただけだった。
 ただ自分の腹に手を置く透を、少女は嘲るように笑った。
「何だ、女から誘ったんじゃ出来ねぇのかよ? しけた男だねぇ」
「そうやって、これまで男に足を開いてきたのか」
「そうだよ。女が食ってくのに、一番手っ取り早い方法だろ! 男はみんな女を好きに抱きたいのさ。あんたも一緒だろうが。さっさとやれよ!」
 透から視線を逸らし、きつく目を閉じた。それが決して好きな行為ではないことを、少女の表情は物語っている。
 覚悟は出来ていたが、いつまで経っても彼がそれ以上触れてくることはなかった。それどころか、肌蹴ていたローブの前を、丁寧に合わせてまでくれた。
「何だよ? やらねぇのか?」
 そっと目を開き顔を上げると、透は少女の体から離れ、窓辺に立って外を眺めていた。少女の言葉に振り返り、微かな笑みを見せる。
「残念だが、俺には生殖能力はない」
「だから、あんた何言って……ちょっとおかしいんじゃない?」
 ベッドの上で体を起こし、少女は透から距離を置くように、枕元で膝を抱えた。
「お前たちからすれば、おかしいように見えるだろうがな。俺にとっては至って普通のことだ。それより、今後はこんなことはやめた方がいい」
「こんなことって」
「見ず知らずの男に足を広げるなんてことはな」
「何だよ、今度はお説教か?」
 嘲笑する少女に向き直り、透は彼女を指差した。
「そこに、新しい命が宿っている」
「は? そこって、どこだよ?」
 バカバカしいと思いつつも、少女は両手を挙げて溜め息をついた。頭のおかしい男とは早くおさらばしたいが、変に刺激して暴力でも振るわれたら、たまったものではない。
 どうやってこの男を部屋から追い出そうか、思案していた少女の耳に信じられない言葉が聞こえた。
「お前は妊娠している。受精して10日程度だが、こんなことをしていれば心当たりはあるだろう」
 何を言われたのか、少女は理解するのにしばらくの時間を要した。言葉は理解出来ても、内容まではそうはいかなかった。
「は? じゅ、受精10日? あんた何言ってんの?」
「2週間程前に、こうして男を連れ込み性交渉をしただろう」
 ギクリと少女の顔が強張った。確かにその頃、今日と同じようにサラリーマン風の中年男に声を掛けた。カラオケボックスで適当な音楽を大音量で流しながら、その男に体を好きなようにさせた。その報酬は、4時間分の部屋代と満腹の食事。
「な、なに言ってんだよ。そんなこと、あんたに分かるわけないじゃん。出鱈目言うなよ」
「信じるかどうかは、お前次第だ」
 これまでと違い、まるで突き放すような口調に、少女は一気に不安になった。
「本当に、あたし、妊娠してるの? あんな、冴えない中年男の? 嘘でしょ、冗談だよね?」
「相手がどんな男かは知らん。俺が分かるのは、お前の胎内で受精卵が成長しているということだけだ」
「う、嘘、嘘だよ! だって、中出ししなかったって言ってたし。あたしだって、それは分かったし。妊娠なんて、あんなムサイおっさんの子供なんて」
 言いながら、少女の顔から血の気が失せていく。女の子をからかうな、と叫びたかった。だが、最初に声を掛けた時から彼の表情に変化はない。からかっているのでも、冗談を言っているのでもないことを、少女は分かってしまった。
「あ、あたし! やだ、子供なんか。だって、あんなオッサンの……やだ、やだ、やだぁ!」
「産みたくないのなら、お前たち人間には、その方法があるだろう」
 ベッドの上で頭を抱え、青褪めて泣き叫ぶ少女の耳に、静かな透の言葉が響いた。その声に少女は、涙に濡れた顔を上げる。
「え、なに?」
「人工妊娠中絶」
 彼の発する言葉では珍しく、冷たい温度を伴っている。少女を見る視線もどこか冷蔑である。しかし、少女にそれが分かるはずもない。
「中絶って、簡単に言うなよ。金が掛かるし、男の同意だって必要なんだ。あんたが用意してくれるのかよ?」
「そんなことは知らん。ただ、お前たちだけだからな。生物で唯一、産まない自由を手に入れたのは」
「産まない自由……はっ、そんなの、金がある奴だけだろ」
 家出を繰り返す自分に母親は冷たい。家に戻れば「女手一つで育てたのに」と嘆かれる。レイプされたのならともかく、自分で体を売ったのだ。中絶したいと言っても、自業自得だと叱られるのがオチだろう。第一、20万円ものまとまった金が、家にあるとも思えなかった。
「お母ちゃんが、あたしにそんなお金、出してくれるはずないじゃん」
「産むという選択肢もあるぞ」
「あんな、どこの誰かも分からない、エロオヤジの子供を産むって? それこそ冗談だろ。簡単に言うんじゃねぇよ! あんたなんかに声掛けるじゃなかった! 出てけ、ここから出てけぇ!」
 ベッドに突っ伏して泣き叫ぶ少女を静かに見つめていた透は、一つ息をつくと、何も言わずに部屋を出て行った。
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