Even if life ends -命果てるとしても-

 静寂に包まれたある建物の一室で、老人が最期の時を迎えようとしていた。
 天蓋のベッドに眠っているその老人の周りには、彼の側近や医師たちが静かに奇跡を望んで祈りを捧げている。
 ふっ、と寝台の白い老人が目を開けた。それを見て、全員が一様に安堵の表情を浮かべている。
 老人が震える声で問うた。
「みな、そこにいますか?」
「はい。全員、揃っております、猊下」
 側近の一人が進み出て頭を垂れた。
「すみませんが、席を外してください」
「猊下、それは……」
「心配はいりません、何かあればすぐに呼びます。少しの間だけ、一人にさせて頂けませんか」
 独特の柔和な笑みを湛えて、老人は静かに言った。いつ命の炎が消えても、おかしくない状態である。医師は勿論反対をしたが、側近たちは彼の意思に従うことにした。

 
 粛々と全員が居室から出て行き、部屋には老人一人となった。
「もう、出て来ても良いのではないですか?」
 老人が部屋の奥に向けて声を掛けると、物陰から一人の青年が姿を現した。
「久しいな」
 20代前半と思われる黒尽くめの彼は、親しげな微笑みを見せてベッドの傍へと近付く。老人は横たえた体から、会釈する様に僅かに首を動かした。
「お久しぶりです。このような状況で礼も尽くせず、申し訳ございません」
「構わん、無理はするな」
「しかし」
「体を動かせんのだろう? お前は昔から細かいことを気にし過ぎだ。俺如きに、お前がそう気を遣うことはない」
「あなたが、ごとき……ですか?」
 自分を卑下する青年の物言いに老人は笑い、青年は神妙な面持ちで「そうだ」と答えた。

 

 老人が、今の道で生きることを決意した若き頃に、青年と出会った。以来60年余り、人生の節目において老人が苦悩した折、青年は出会った頃と何一つ変わることなく、老人の前に現れた。何をするでなく、ただ老人の傍にいて話を聞くだけであったが、青年と会った後には必ず心に平安が訪れていた。
 青年は名を「トオル=コウヅキ」といった。やや堀の深い顔立ちだが、黒い髪に白人とは言いがたい肌の色は東洋人のものだ。西洋にはない名前の響きに老人が尋ねると、「江月透」という文字とその発音を紙に書いてくれた。その道の者が見れば感動する程の達筆であったが、当時の老人にはまるで記号の様に見えたものだ。それが日本の「漢字」という文字であることを知ったのは、老人が今の職に就いてからのことである。
 ここ数年会うことはなかったが、今こうして現れたのは、老人の命の炎が消えかかっているのを察知したからである。
 
 

**********

 
 
「今日は朝から体が楽なのです。何かなさいましたか?」
 老人の、柔和な微笑みの奥に垣間見える、確信に満ちた瞳の光り。透は皮肉めいた笑みを見せて言った。
「別に、大したことはしていない。俺が出来ることは、せいぜい痛みや苦しみを和らげるだけだ。天命は変えられん」
「私は死を恐れてはいません。痛みや苦しみも、生きていればこそ」
「分かっている。俺が勝手にしているだけだ。八つ当たりだな」
「随分と優しい八つ当たりですね。あなたらしい」
 老人が顔をしかめて苦しそうに息を吐いた。青年が痛みを和らげていても、完全に無くなる訳ではないようだ。
 透は老人に近寄り、ベッドの端に腰を下ろした。そして右手で彼の額に触れる。すると辛そうだった老人の呼吸が、目に見えて軽くなった。ほうっと深く息を吐く。だが、老人の表情は冴えない。
「私如きに、そのような力はお使いなさいますな……」
「お前が苦しんでいるのを、黙って見ていろと言うのか。所詮、この程度しか出来ない力だ」
 沈鬱な表情を見せ、額から離れる透の手を、老人は皺の刻まれた自らの手でそっと掴んだ。その手はとても温かく、そして清廉である。
「あなたはそう思われていても、救われたいと願う人間には大きな力です。どうか、多くの人々のために……」
 老人の言い掛けた言葉を、透は手を上げて制した。
「何度も言っただろう。俺にそんな力は無いと。予定調和の中で、無駄な足掻きを続ける道化でしかないのだ」
 その自嘲めいた口調に、老人は顔を曇らせた。
「虐げられる人間も、支配する人間も、それを傍観する者も、救おうとする者も、全ては予定調和の中にある。この俺も例外ではない」
 凛然とした面持ちで語る透の姿は、言葉では言い表せぬ哀愁が漂っていた。
 老人の知る限り、60年余りの年月の間、彼の外見はわずかな老いも見せたことがない。目の前にいる20歳そこそこにしか見えないこの青年は、いったいどれほどの人間の一生を見てきたのだろう。
 『ただの人間』でしかない自分には、それを推し量ることなど出来ようはずがない。聞いたところで、理解することも出来ないだろう。彼は人間とは違う存在なのだ。透と会うたびに、老人が抱き続けた想いは、今際の時を迎えても消えることはなかった。
 

 暫しの間、時を刻む音だけが老人の居室に響く。それはどこか荘厳な音色を持って部屋を漂っていく。
 ふと、彼がどこか哀愁を帯びた声音で口を開いた。
「お前は本当に……お前の人生に、未練はないのか?」
 まさかこの青年からそんな問いを受けるとは、予想もしなかった老人は瞠目したが、すぐにいつもの穏和な表情に戻る。
「ありません。この世に生を受けた時から、私の魂は主と共にありました。いつ命が終ろうと、それが宿命さだめなのでしょう……」
「そうだったな。お前たちは、いつの時代もそうだった」
 『お前たち』。それは自分の前任者たちを指しているのだろう。老人は改めて、この遠い東の国から見舞いに訪れた彼の、生きた時間を思う。気の遠くなるような時間を過ごして来たのだと言う彼は、一体何を思って生きてきたのか……。
「一つだけ」
「ん、なんだ?」
「命に未練はありませんが、世界平和が実現出来なかったことは、少々心残りですよ」
 老人の穏やかだった顔に、初めて懸念の色が浮かぶ。そして、透の表情にも変化が現れた。それは、冷笑ともとれる皮肉な笑みだった。
「世界平和か……」
「人が争わずに済む世界は、訪れるのでしょうか」
「人間が人間である限り、それは無理だろう」
 この青年の言葉にしては冷たく突き放した物言いで、老人は意外な思いで聞いた。
「なぜ、無理だと?」
「世界的規模で展開するお前たちの組織でさえ、長を決めるのに『自分の国』に拘るのが人間だぞ。その想いが消えない限り、世界平和など遠いことだ。カロル」
 ふいに本来の名を呼ばれ、老人は怪訝な顔をしたが、透の憂いを帯びた瞳を目にし、神妙な面持ちで彼の言葉を聞いた。
「人間が誕生して以来、その本質は今日に至っても何一つ変わっていない。唯の一つもだ。変わる兆しさえ見えないならば、世界平和など夢でしかない。たとえ実現出来たとしても、それは万人に平等な平和ではない。そんなものは、平和とは言えんだろう。人間ほど他者を犠牲にして生きている生物はいないのだ。『生かされている』こと、このたった一つのことを肝に銘ずることさえ、人間には難しい」
 透はそこで一旦言葉を切り、そして詫びる様に続けた。
「……すまんな、お前に言うことではなかった」
 老人は無言で首を振る。
「いいえ、きっと私たちはそう言う者なのでしょう。それでも私は……すべての人々が『生かされている』ことを忘れているとは思いません。みな、心の底では分かっていることなのです。ただ、いつもそれを感じる程には、私たちは成長していないのでしょう。ですが、長い年月の果てであっても、私は、私たち人間が、世界平和を実現出来ると、信じていますよ」
 穏やかに目を閉じて呟く姿は、この先を生きる人々へ祈りを捧げたものなのだろうか。透は憂えた表情を僅かに微笑みに変え、窓の外を眩しそうに眺めた。
「希望を捨てるなと、いつもおっしゃっていたのはあなたですよ」
「そうだったな。お前たちには、いつも驚かされる」
 ふっと顔を綻ばせ、透はそっと腰を上げた。老人も穏やかな笑みを見せた。
「最後に一つだけ、よろしいですか?」
「なんだ?」
「私の命は、あとどのくらいです?」
「もう僅かだ。言っておくべきことがあるなら、早くあの者たちに言っておいた方がいい。……ではな、もう会うことはないだろう」
 ベッドの傍らに立ち、自分を見下ろす青年を、老人が懐かしげに見上げる。
「あの時も、そんな言葉でお別れしましたな……」
「そうだったな。だが、これが本当の最後だ」
 彼の手が恭しく老人の額に触れる。目蓋を閉じた老人の目尻から、一筋の涙が零れた。
「あなたにお会い出来たことを、感謝します。私がこの道に入るきっかけを下さった」
 透の口元が、心もち上がる。
「お前自身が選択したのだ。俺は何もしていない。お前は自分に対しても他人に対しても、常に誠実であろうとし、それを貫いた。俺も、お前に会えてよかった」
 彼が離れると、それまで平静だった老人の呼吸が、俄かに苦しげなものへと変わった。
 透が部屋の死角に入ったのとほぼ同時に扉が開き、側近たちと医者がベッドを囲うように、老人の元へと駆け付ける。
「すまなかったな、貴重な時間を使わせてもらった。彼は、いい人間だった」
 低く穏やかな、それでいて聞く者を畏怖させるようなその声は、部屋にいた全員の耳に届いた。彼らは一様に驚愕し、次いで揃えたように床に跪いた。そして両手を組み、恭しく頭を垂れた。
 
 

 数時間後、老人を見舞う人々が祈りを捧げる広場において、夜空に高々と鐘が鳴り響いた。それを聞いた人々は泣き崩れた。更に深く祈る者もいる。様々に嘆く人々の中で、透もその鐘の音を聞いていた。
「Karol,it's eternity.Amen.」
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