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BD 「Phantom Pain」

  • 2012年03月28日(水)
  • BD…ブラッディドールです。北方謙三御大の人気シリーズでござい。

    今はもう持ってないのですが(本棚整理のため)、かなり読みまくった小説です。
    元々ハードボイルドが好きだったので、まぁ自然の流れで読むようになったというか。

    まぁ、ここまで男臭いのは北方御大ならではだと思いますが。
    私はもうちょっとスマートなのが好きだったり…(笑)。

    でも好きなキャラはいました。
    それ中心で書いているので、誰かはすぐに分かっちゃいますが…(笑)。

    一時期、サイトにもちょこっと載せていたのですが、削除してしまっていたので、この度ここで復活(笑)。

    「Phantom Pain」です↓

    続き
     

     ここ数日降り続いた雨があがり、待ちわびたように太陽が顔を出した。夏でもないのに、陽気は鬱陶しいくらいに暑い。数日の雨で大量に貯まった洗濯物を干し終えると、やることがなくなった。ベランダに出て、手すりにもたれながら煙草を吸う。

     一年ほど前、社長が面白がって作らせた木製とブロンズ製の義手は、もう体の一部と自然に認識出来るほどに馴染んでいる。慣れない頃は洗濯物を干すのさえ、重労働だった。今は大抵のことは問題なく出来る。右手だけで出来ることも多くなった。こうなると、左手がないことは俺にとって、あまりハンデにはならなくなった。切り落とした桜内さんも、けもの並みの順応力の高さだと、誉めたんだか呆れたんだか分からないことを言っていた。

     俺自身は慣れるのに苦労した、という思いはあったが、慣れてしまえばどうということはなかった。ただ、時折なくしたはずの手首から先に、突発的な痛みが生じることがあるだけだ。幻肢痛。体の一部がもうないことを、脳はなかなか認識出来ないらしい。俺の脳が無意識に左手の先を探しているということが滑稽だった。

     その痛みも今は薄れつつある。切り落とした頃は頻繁にあったが、最近はほんのたまに、思い出したように激痛が襲ってくるだけだ。

     短くなった煙草を灰皿に押し付け、二本目を咥える。右手だけでマッチを使い、煙草に火を点けた。ライターを使わないのかと、よく訊かれる。元々右手で出来ることを増やすための訓練の一環だったが、慣れるとライターを使う必要性がなくなった。

     秋だというのに、日差しは一向に陰る気配がない。虫干しよろしく、手すりにもたれて体全体で日差しを受けていると、玄関の呼び鈴が鳴った。

     珍しい。ここに越してきてから、誰かがやって来ることなど殆どなかった。せいぜい宅配便や新聞の勧誘くらいだ。越した頃は坂井が顔を見せていたが、二十日も過ぎるとそれもなくなった。

     再度、呼び鈴が鳴る。面倒臭いが出ない訳にもいかない。煙草を咥えたまま魚眼レンズを覗くと、煙草に火を点ける坂井が見えた。何の気まぐれだ。

     開いたドアの先で、皮ジャンパーにジーパン姿の坂井が軽く手を挙げ、咥え煙草で挨拶してきた。開いたファスナーの間から、ブルーのTシャツが見える。この暑いのに皮ジャンとは、バイクで来たのか。そういえば、さっき爆音が聞こえたような気がする。

    「何の用だ」

    「ちょっと付き合え」

    「社長に何かあったのか?」

    「そんなんじゃねぇよ」

    「だったら他を当たれ。俺は忙しい」

    「日向ぼっこがか」

     見られていたのか。舌打ちを隠さない俺に、坂井は気分を害した風もない。

    「下から声を掛けたのに気付きゃしねぇ。ボケッとしてんなら暇だろ」

    「どこ行くんだよ」

    「行きゃ分かるさ。スカイラインの鍵持ってこい」

    「行くとは言ってねぇぞ」

    「俺を無視するのも面倒臭ぇだろ。晴れたらお前を誘うつもりだった。今日は晴れた。だから付き合え」

     どういう理屈だ。だが、少しは行く気になっている俺がいた。坂井がここまで強引に誘うのは珍しいからだ。社長か店絡みでなければ、こんなことはなかった。白い手袋とジャケットを取りに行き、部屋を出た。

     
     

     坂井が運転するスカイラインは、海沿いの道を疾走している。皮ジャンは脱いで後部座席に放ってあった。

    「フェラーリはどうした?」

    「昨日使った」

     あれを走らせるのは二日に一度。カウンター内での言葉遣いといい、坂井は変なことにこだわる男だ。

     港に出ると、ホテル「キーラーゴ」に行く道とは反対方向に曲がる。それで行き先の予想が付いた。

    「おい、坂井」

    「お前、あれ以来『レナ』に行ってねぇだろ。菜摘さんと安見が心配してる。顔見せくらいしろよ」

    「俺の勝手だ」

    「特に安見がな。お前が死に掛かったって知ってる。お前が姿を見せねぇから、生きてるっつっても信用しねぇんだ」

    「人の話を聞け」

    「同じ時期に叶さんが死んだ。安見にとっては姿が見えねぇってのは、堪えるんだよ」

    「だから、なんでお前に連れて行かなけりゃならねぇんだよ」

    「『レナ』に行くのに、あれこれ理由を付けなきゃならねぇんなら、俺がその理由ってのを作ってやるって言ってんだよ」

    「そういうんじゃねぇ」

    「だったらいいじゃねぇか。元気な姿を安見に見せてやれ」

     言い合ってる間に、『レナ』に到着しちまった。坂井はさっさと降りていく。おまけにキーまで抜いていった。仕方なく俺も車から降り、『レナ』に入っていく坂井の後に続いた。

    「いらっしゃい、坂井さん」

    「よう、引きこもり野郎を連れてきてやったぜ」

    「あ、下村さん!」

     安見が駆け寄ってきて、俺の腕やら肩やらを触ってくる。

    「なにやってんだ?」

    「だって、幻だったら嫌だもん」

     坂井の怪訝な問いに、安見は真剣な顔で返している。俺が生きてると信用してなかったのは、本当だったらしい。

    「実体だよ。足だって付いてるぜ」

    「うん、ちゃんと下村さんだ」

     嬉しそうにはしゃぐ安見に、俺は苦笑するしかない。他に客はいなかった。あの時には流れていたBGMもなく、波の音だけが静かに響く。坂井がカウンターのスツールに座った。無言で隣りを指差す。ここまで来たら覚悟を決めたさ。坂井の隣りに腰を下ろした。

    「いらっしゃい、下村くん。一年ぶりね」

    「どうも。ご無沙汰しています」

     まるで三日ぶりのような口調だ。コーヒーの美味さもあるんだろうが、ここが繁盛しているのは、菜摘さんの人柄によるところもあると見た。菜摘さんが豆の焙煎を始め、香ばしい香りが店内に広がる。安見が俺の隣りに座った。

    「うちのコーヒー、下村さん気に入ってたでしょ。なのに、全然来ないんだもん」

    「なんで俺が気に入ってたって分かるんだ? 大して来てなかったぞ」

    「ママが言ってたの。下村さん、最初に飲んだ時の顔が、とっても感動したみたいだったって」

    「そういやお前、店に来た時もブラッディマリーを飲んで、すげぇ満足そうな顔をしてたな」

     笑いを含んだ坂井の言葉に、安見が吹き出す。

    「笑いたきゃ笑え。美味いもん飲んで満足しちゃ悪いか」

    「悪かねぇよ。ただ、美味いと思ってんなら素直に飲みに来いってことさ」

    「俺の勝手だ」

     ジャケットのポケットから煙草とマッチを出す。白い手袋を着けた義手に煙草を挟み、右手だけでマッチを擦って煙草に火を点けた。安見が不思議そうな顔で、一部始終を見ていた。

    「なんだ?」

    「ううん、ライター使わないのかなって思っただけ」

     普通ならこの後で、その方が楽じゃないか、ということをよく言われる。だが、安見はそう言ったっきり無言で席を立ち、母親を手伝うためかカウンターの中へと入っていった。好奇心が何にでも勝る年頃だと思うが、彼女は引きどころを心得ているようだ。この娘も、この街で色々あったってことか。

    「安見に手を出すと、秋山さんに半殺しにされるぞ」

    「どういう根拠でそういう結論に達するんだ」

    「ずっと見てただろうが。やけに熱のこもった視線だったぜ」

    「そう思いたきゃ勝手にしろ……」

     不意に左手の先に激痛が走る。何とか顔に出すのは回避したが、言葉尻りが妙な具合に途切れちまった。坂井が怪訝な目を向けてくる。このままやり過ごすには、痛みが強過ぎた。

     坂井の俺を呼ぶ声を背後に聞きながら、無言で海岸の見えるテラスに出る。そこで我慢の限界を超えた。膝をつき、義手を抱えてうずくまる。呻き声が、くいしばった歯の間から漏れる。発生する頻度は下がっていたが、それに反比例するように痛みの度合いは激しくなっていた。今回のは、記録的な激痛だ。

     左手首を締め上げるように、右手で押さえた。全身が汗に濡れる。冷や汗か脂汗か、いずれにしても気分はすごぶる悪い。

    「下村」

     僅かに瞼を上げると、坂井のブーツの先が見えた。続いて折り曲げたジーパンの膝。うずくまる俺の傍らに、坂井が腰を下ろしていた。そして左肩に熱。それが坂井の手だと気付くのに、しばらく時間が掛かった。

    「俺に出来ることは?」

    「あるわけ、ねぇだろ。これは、俺の、問題だ」

     それだけを話すのに、気が遠くなるほどの気力を使った。邪険に言ったつもりだが、左肩の熱は引くことなくその場に留まっている。それに少しだけ安堵した。そんな自分が忌々しい。

     時間にしてせいぜい五分、といったところだろう。生じた時と同様、激痛は唐突になくなった。俺は腹の底から息を吐いて、上体を起こした。『レナ』の壁に背中を預け、足を伸ばす。額に張り付いた前髪をかきあげ、深く息を吸っては吐くことを繰り返した。それでようやく落ち着いてくる。右腕の袖で額の汗を拭った。

     目の前に煙草の箱が突き出された。坂井の持っていた煙草だ。俺は無言でそれを口に咥える。当然のように、ジッポの火が差し出された。肺一杯に煙りを吸い込み、吐き出す。あっという間に煙草は短くなった。すると咥えていた煙草が奪い取られ、新しい煙草が突き出される。一年前にもこんなことがあった。妙なデジャビュを感じながら、二本目の煙草もありがたくいただく。

    「いつもあんなのが起こるのか?」

    「まぁ、たまにな」

    「店じゃ気付かなかった」

    「いつ来るか、俺にも分からねぇ。店に出始めた頃から、少なくなってた。ここ一月は何もなかったんだ」

    「いつ起こるか分からねぇから、ここに来なかったのか」

    「まぁ、それもある。女の子に見せられる姿じゃねぇだろ。菜摘さんに見られたら、社長や桜内さんに知られちまうし」

    「かなり痛そうだったな」

    「なくした時ほどじゃねぇよ。切り落とした後じゃねぇ、砕かれた時のだぜ」

     笑い飛ばすように言うと、坂井の息を呑む気配が伝わってきた。

    「あの時、左手がこの世からなくなっていく感じがした。あの喪失感は、こんな痛みの比じゃないね」

     二本目の煙草は、時間を掛けて吸った。潮風と波音が、俺の体と心を穏やかに撫でていく。

    「幻肢痛ってんだと」

    「げんしつう?」

    「切断した体の一部が、痛みを発生する症状だ。俺の場合は、左手の先。笑っちまうよな。俺自身はもうないって認識してんのに、脳はそれを理解出来ねぇんだ」

    「坂井さん、下村さん、コーヒー出来たよ」

     テラスに出る扉が開いて、中から安見が顔を出した。少し不安そうな表情だったが、俺が手を挙げて応えると、安心したように笑って引っ込んだ。

     煙草を消して立ち上がる。ちょっと伸びをすると、固まっていた筋肉がほぐれていく。坂井はなんとも言えない表情をしていた。掛ける言葉が見付からない、という風だ。当然だろう。意識的に納得していることが、無意識下では理解出来ていないなんて、実際になってみなけりゃ俺だって理解不能だ。

     カウンターにはコーヒーが二つ、妙に物哀しげに置かれていた。味は一年前と変わっていない。美味いコーヒーだ。これを味わうためにここに来るっていうのも、悪くはない。

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